Eyes
夕暮れ。
といっても、もう空の裾は濃紺に近い。
なんだかんだで、帰るのが一番遅くなってしまった。
とっとと着替えて帰るか――――
少し駆け足で部室に向かったのは、青学2年、海堂薫。
オレンジのバンダナが、ほの暗い景色に映える。
部室のドアを開けて、目に飛び込んできた人物に驚いた。
長身。眼鏡。黒い髪。
青学3年、乾貞治。
「何やって・・・・」
言葉を続けようとして、つい止めてしまった。
微かだが聞こえる寝息。
今、乾貞治は、部室のベンチに腰掛け、(おそらく)眠っている。
(この人もやっぱ寝るのか・・・)
正直、海堂薫の感想はこんな感じだった。
人間なのだから、眠るのは至極当然の事なのだが、
もしも乾が眠らないんだと言われたら、あっさり納得できそうなのだ。
なんとなく、音を立ててはいけない気がして、
半開きだったドアを静かに閉めた。
足音を立てないようにロッカーに近づこうとした。
だが、やはり気になる。
海堂薫にとって、乾貞治は得意な相手ではない。
確かに、彼のデータと分析力は十二分信頼できるが、
一緒にいると、ペースを乱される感じがするし、
何を考えているのかよくわからず、混乱の種となる。
瞳の隠れた余裕の笑みに、いつも振り回されている気もする。
しかも、その乾貞治は今、すぐ側で眠っているのだ。
一度止めた足を踏み出すをためらわれ、つい眉根をひそめてしまう。
舌打ちをしそうになって、ようやく自制する。
眠っている時でさえ、この人に振り回されるのか。
そう思うとバカにされている気がしてきて、
頭をかきついでに、乱暴にバンダナを外す。
なんだか、すべてをする気が殺がれてしまった。
ふいに、カチャリという小さな金属音が聞こえた。
音のした方を見ると、乾の眼鏡が、彼のひざの上に落ちている。
首をうなだれる姿勢をしていたので、外れてしまったのだろう。
乾貞治の素顔、と言って、興味のないものはいないだろう。
海堂薫も例外ではない。
レンズの奥の眼を確認したくて、歩み寄りその顔を覗き込んだ。
――――なんだ、割と
一本通った鼻筋。整った眉。
薄い唇からは、未だ安らかな寝息が漏れている。
伏せられた瞳も、開けば綺麗な色をしているのだろうか。
―――――・・・。
とりあえず、このままでは床に落ちてしまいそうな眼鏡を、
一応折りたたんで乾の隣に置いた。
(・・・も、いいや)
そう思い切って、海堂薫は乾に背を向け、自らのロッカーに向かって歩き出した。
着替えはもう止め。めんどくせぇ。
荷物をまとめ終わった時だった。
「ん・・・っ、ぁあ・・・大分、寝てしまったな・・・」
乾貞治が目覚めた。
つい振り返り、声をかける。
「先輩・・・起きたんスか」
「ん?・・・おぉ、海堂か。まだいたんだな」
「こっちのセリフっすよ。・・・何してんスかこんなトコで」
まだ眠いのか、
乾は目をこすり、マッサージのような事をしている。
「あぁ・・・昨日あんまり寝てなくてね。5限の古典は辛かったなぁ。ははっ・・・」
「・・・・・、そうスか。・・・じゃあ俺帰るんで」
扉に足を向けようとした時、その言葉で呼び止められた。
「ところで海堂、おまえ今、どこにいるんだ?」
「はぁ・・・?自分のロッカーの前っスけど・・・」
「そこかぁ・・・。じゃあ、俺の眼鏡は?」
「先輩の隣っス」
「ん、ありがとう」
そう言った乾だったが、手探りしているのは
まったく眼鏡にたどり着きそうにない場所。
海堂薫は、大げさに溜め息をついた。
「・・・先輩、そんな目ェ悪いんスか?」
「あぁ、そうなんだ。・・・すまんが海堂、眼鏡を取ってくれないか?」
眼鏡のない顔が、海堂の方を見て笑む。
いつもと同じはずなのに、
眼が、優しい。微笑みが柔らかい―――
その瞳の温かさに、思わず引き込まれる程に。
「ん?どうした海堂」
「あ・・・いや、何でもないっス・・・」
海堂薫は、乾の方へと歩み寄る。
乾の笑顔が、相変わらず自分に向いているので
何となく目線をそらしてしまう。
「・・・そんなんでよくテニスやってますね」
「ははっ。そうだなぁ、まだおまえの顔も見えていないしな。
ま、なんとかなるもんだろう」
(・・・何か・・・・・・)
やはり、どこかいつもと違う気がする。
単に、あの眼を見るのが嫌なだけだろうか。
「お、少し見えたぞ。バンダナは外しているな?」
「・・・まだそれぐらいっスか」
どうして、嫌なのだろう
「じゃあ、この辺だったらどうっスか」
身をかがめて目線を合わせ、顔を近づける。
「んー、もう少しかな。輪郭はなんとなくわかる」
・・・嫌なのか?
「まだ見えないんスか?結構近いっスよ」
「そうだな・・・もうちょっと・・・・・」
焦点の定まらないはずの乾と、眼が合った気がした。
「これでもまだ・・・」
「海堂」
海堂の言葉を途切って、乾は海堂を見据えた。
見えないはずの、瞳。
唐突に名前を呼ばれ、驚く海堂。
その頬に指を添え、乾は海堂に口づけた。
驚き。
抵抗する術はあるはずなのに―――――
動けない。
まるで、その瞳に捕われてしまったかのように。
海堂薫の思考は、次第に薄らいでゆく。
かすむ、と言うより、溶かされるといった感覚に近いそれ。
唇が軽く触れる程度なのに、全身に毒が廻ったようで。
薄く開かれた乾の眼に見つめられ、つい眼を閉じてしまった。
その時。
乾が少し笑ったような気がした。
それからすぐ
唇に軽く滑った、舌先の感触。
背中に、得も知れない感覚が走った。
「・・・・・っ!・・・な・・・っ」
海堂は、思わず身を引いた。
事の前と同じ、いつもの笑みを浮かべる乾。
まるで、何もなかったかのように。
―――その笑顔に、少し腹が立って。
「なっ、なんのつも・・・!!」
「海堂」
また、意味を成さないまま途切られた言葉。
いやに真剣な声音に、その眼を見つめてしまう。
「本気だ」
真剣な眼差し。
まっすぐ海堂の眼を見据え、そらすことを許さない。
「・・・ぁ・・・・・」
続きの言葉が見つからない。
何を言うべきなのだろう。何と答えたいのだろう。
刺すような視線を、必死で返すことしか出来ない。
突然、ふっ、と乾が微笑んだ。
先程までのそれはどこへ消えたのか、
まるで愛おしむような、とても優しい――――
それから、眼鏡を片手に持ち、乾が立ち上がった。
海堂の意識の端は、未だ捕らわれたまま。
「・・・そろそろ帰ろう。もう大分日が暮れてきた」
前後の空気と全く噛み合わない言葉に、
海堂はあからさまに呆然とした顔をしてしまった。
乾は自分の鞄を取り、ドアへ向かって歩きかける。
「ちょっ・・・何・・・っ」
置いていかれそうになり、つい呼び止める。
振り返った乾が、言った。
「一緒に帰ろう」
またその笑顔に流されかけて、必死でこらえた。
置いていかれたくなくて、ちゃんと答えた。
「・・・うっス・・・」
眼を見て答えたかったのだが、
やっぱり恥ずかしくて、ついうつむいてしまった。
頬が紅いのが、自分で分かる。
くっくっ・・・という、押し殺したような笑い声がした。
今の反応を見て笑われたのだと気付いて、パッと顔を上げる。
案の定、必死で笑いをこらえている様子の乾。
何か言おうとして、更に紅くなっている顔に気付き、やめた。
何だか悔しくて、海堂がさっきのようにうつむいていると、
乾が近寄ってきて、その頭を少しなでた。
「・・・そういう所が、いいんだ」
まだ少し笑いを含んだ調子で言った。
海堂薫の心臓が、一つ、大きく鳴った。
顔を上げた。
目が合って、少し笑った。
乾は、ようやく眼鏡をかけた。
「・・・手はつながないのか?」
「・・・今日は遠慮しときます」
「じゃあ、次の機会にでも」
「・・・うっス・・・」