入浴の事情

目を覚ますと、一時間十分寝過ごしていた。 こう書くと、 大抵の場合、 待ち合わせか約束に遅れそうになるという状況を想像するかもしれない。 しかし、今の場合、敏子との約束には十分に間に合いそうだった。

ただ、寝過ごしたおかげで、風呂には入りそこねた。 この時間なら、目覚ましのインスタントコーヒーを飲むのが関の山で、 シャワーなんか浴びていたら到底約束の時間には間に合わない。

俺はしぶしぶと お湯を沸かし、目覚ましのインスタントコーヒーを啜った。

しかし、もう何日風呂に入っていないだろうか? 俺は風呂はあまり好きな方じゃないが、 それでもこれだけ風呂に入れないと気持ち悪くなってくる。 言っておくが、 俺は風呂が嫌いなのであって、 別に不潔が好きなわけじゃない。 いくら風呂嫌いでも、三日も風呂に入れないと、 逆に風呂に入りたくなってうずうずしてくるくらいだ。

インスタントコーヒーを啜りながら計算してみた。

あれは、四日前だ。 確か、二日ぐらい風呂に入っていなかった。 その日は、 明日入ればいいと思っていたが、 次の日、取引先に納入したプログラムの調子が突然悪くなり、 終電ぎりぎりまでプログラムの虫取りをやる羽目になった。 帰ってきたら、眠くてそのまま寝てしまった。 その翌日は、飲み会で、酔って眠くなったために、 やはり風呂に入らず寝てしまった。 そして昨日だ。 やはりプログラムの虫取りで帰りが遅くなり、 コンビニで買った弁当を食べたらすぐに横になった。 どちらにしても、今日は有給で、約束があるのは昼からだ。 少し早めに起きて、シャワーを浴びてから敏子と会っても間に合った。

が、 寝坊してしまった。 困ったものだ。 ざっと五日は風呂に入っていないことになる。 これが冬なのが幸いした。 もしも、夏だったら、悲惨だったろう。 とはいえ、 五日も風呂に入っていないと、気持ち悪い。

今日は、敏子と会うはずだったのだ。 もっとも、 敏子だって、俺の風呂嫌いはよく知っている。 さすがに、これなら臭うほどでもないみたいだから、 敏子だって文句は言わないだろう。 どっちみち、ホテルに行くことになるだろうから、 その時にシャワーを浴びれば、 敏子からは文句を言われない。

待ち合わせ場所に行くと、既に敏子が待っていた。
「あれ? 早いね。まだ、五分は余裕があるというのに」
「あら、あなたこそ。珍しいわね。今日は定刻前だわ」
敏子が言っているのは、 ここ何回か俺が遅刻しているので、 今日も遅刻するのだと思っていたということである。 俺は、ここ数回、ずっと遅刻していたが、 さすがに今日ばかりは遅刻するわけにはいかなかった。 今日も遅刻したら、相当の波乱を覚悟しなければならなかっただろう。 しかし、そのためにシャワーをあきらめなければならなかった。

今日は、 敏子にクリスマスプレゼントと誕生日のプレゼントを兼ねて、 何かほしいものを買ってやろうと約束していたのだった。 もちろん、買い物をして、食事をして、町をぶらついてからは、 どちらが言うともなく、二人して行くところに行く。

クリスマスが近づいているせいだろうか、 町は華やかな活気にあふれている。 不景気はあいかわらずだが、 クリスマスなら財布の紐がゆるむかもしれない。 そんなもくろみもあるのかもしれないが、 デパートの飾りつけも普段より派手だった。 しかし、去年よりも人の足が遠のいているのが、俺にもわかった。 例えば、ケーキ売場を歩いていても、人はそんなに多くなかった。
「やっぱり景気が悪いせいか、ケーキ売場も閑散としているね」
「あら、それって駄じゃれ?」
「いや、そんなつもりじゃないけど」
「そうよね。そんなオヤジギャグを言っていると、 会社の女の子に嫌われるわよ」
「別に嫌われたっていいさ。 それとも、敏子。君は、会社の女の子に俺がもてた方がいいのかな?」
「そりゃ、もてない彼氏を持つよりは、もてる方がいいわよ」
「なるほど。そんなものか…」
そういう敏子の気持ちはなんとなくわかるが、 女性心理は複雑なものだと改めて思った。

とにかく、 そんな感じで、ぶらぶらと買い物をしながらデパートをうろついて、 俺たちはホテルに入った。 部屋に入るなり、 敏子はさっさと服を脱ぎ、裸になった。 一方、俺が真っ先にしたのは、バスタブにお湯を張ることだった。

確か、 最初に、二人でホテルに入った時には、 お互いすぐには服を脱ごうとはせず、 また、シャワーも別々に浴びていた。 しかし、今では、お互いさっさと裸になり、 風呂も一緒に入った。 もちろん、することをする際も、もはや照明を落とすこともなかった。

「お風呂にお湯がたまったみたいね。入りましょうよ」
「そうだね。ここ何日か、風呂に入りそこねていたので、 ずっと入りたかったんだ」
「まったく、あなたって…。今日はちゃんと洗うのよ」
「うん」
俺たちは、まったくの裸で、そのままバスルームに入った。 以前は、バスタオルでもったいぶって体を隠したりもしたが、 今ではそんなことはなかった。 そういう点では、夫婦者の入浴と全然変わらない。

そういえば、 ホテルの部屋に入るなり、さっさと服を脱ぐのも色気がなかった。 ちょっと前なら、 敏子の唇を吸いながら、胸や腰を愛撫し、 乳首や秘所を刺激しながら、 じらしじらし、服を、下着を脱がしたのだが、 そういう手続きも今となっては一種の虚礼として廃止されている。 たまに、そういう手続きを踏んで、 彼女の中に入っていきたいと思うことがないでもないが、 敏子はそんな虚礼にはもう飽きていた。

「あら? あなた、何考えているの?」
男の体は正直なものだ。 いやらしいことを考えていたことがばれてしまった。
「ん? ちょっと、敏子と最初にホテルに来た時のことを考えていたのさ」
「本当かしら? 怪しいわね」
「いや、本当だとも。 あるいは、君の裸をまじまじと見てたので、こうなったのかもしれないな」
それは、ちょっとしたサービスのつもりだったが、 調子に乗った敏子は、つい茶目っ気を出してしまう。
「あ、そう。 ところで、 それ、洗ってあげましょうか?」
「いや、いいよ。 ああ、しかし気持ちいいなあ。 やっぱり、風呂はいいなあ」
お湯が心地良かった。 体を覆っている余計な皮膜が溶けていくような気がした。
「なに言ってんのよ。お風呂嫌いなくせに…。 私は湯船に入るわよ」

俺も敏子と一緒に風呂に入った。
「ねえ。ひざに乗せてよ」
「うん」
敏子は俺のひざに乗ってきた。 俺は、後ろから敏子の乳房を掌で受け、乳首をまさぐる。 目を細めて敏子は振り返る。 その彼女の唇を俺は吸った。 乳首をまさぐる手は、臍を、そして秘所へと伸びていく。 敏子は小さな嘆息をもらしつつ提案した。
「ねぇ。もう出ましょうよ」
はっと、正気に戻った。
「う、うん。でも、ごめん。ちょっと体洗いたいから、先に出ていて」
「わかったわ。早くしてね」

敏子が出ても、ちょっとの間だけ、そのまま湯船につかっていた。
「そうだ、いくらお湯を使っても、料金は変わらないはずだ」
思いつきが、声に出た。

俺は、突然に嬉しくなって、 湯船を出た。 石鹸を泡立てて、体中くまなく洗った。 一度、お湯で流したが、 まだ、垢が落ちていないように感じた。 再度、石鹸を泡立てて、体に泡を塗った。 熱目のシャワーを浴びると、 今度こそ、一枚皮がはがれたようなすがすがしい気分になった。

そこへ、敏子が顔を出した。
「ねえ。まだなの?」
「あ、ごめん。髪も洗いたいから、ちょっとまって」
「もう、待ちくたびれたわよ。早くしてね」
「うん。うん」

が、髪を洗うのにも、一回ではすまなかった。 一通り洗っても、汚れが残っているような気がする。 それに、恥ずかしい話だが、頭もかゆかった。 そこで、もう一度、シャンプーを泡立て、髪を洗うことにした。

お湯が使い放題なのが、嬉しかった。 いくら使っても、休憩代は変わらない! せっかくだから、文字通り、湯水の如く使おう!

髪のシャンプーが洗い流された後でも、 俺はシャワーにあたっていた。 熱いお湯が快かった。

そこへ、また敏子が顔を出した。 多少機嫌が悪いようだ。
「ねえ。何やっているのよ。 お風呂に入りたかったら、一人でお風呂屋さんに行けばいいじゃないの」
「あ、ごめん。ごめん。つい気持ちよくなって…。 ちょっと、湯船につかってから、すぐに出るよ」
「そう…。早くしてね」

俺は湯船につかって、バスルームを出た。 敏子はベッドに横たわっている。 俺は、敏子の横に体を滑り込ませた。
「ねえ。待っていたのよ」
「うん」

が、なんかだるい。 とてつもない疲労にとり憑かれたようになった。 ああ、ひょっとしたら、これが、湯あたりなのかと思った。
「ごめん。少しだけ横になりたいんだ。 なんか、突然に疲れて…」
「ちょっと、酷いじゃないの! 人の体をさんざん火照らせておいて…」

俺の耳にはそこまでしか聞こえなかった。 俺は全裸のまま、いびきをかきだしてしまったらしい。 ああ、多分、これはただではすまないな。 きっと、あとで敏子に徹底的に責められるなと思いつつ、 泥のような深い眠りに就くのだった。

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