地下から来た男

男はひっそりとこの世界にやってきた。

サイトを作り、いくつかのエッセイやコラムをアップロードした。 しかし、すぐに彼のサイトの訪問者が気がついたように、 男のサイトにはプロフィールも、リンク集もなく、そして、掲示板もなかった。

男にとってプロフィールは危険きわまりなかった。 こんなものは、 自分の首を絞めるだけのものでしかない。 ネットワークの裏世界での経験が、 彼にプロフィールをアップロードさせることを思いとどまらせた。 リンク集は、 しがらみを一切振り切って来た今となっては、 何も付け加えるものがなかった。 そして、掲示板。 こんなものをおいていたら、 いつ爆弾が投げ込まれるかわかったものではなかった。 地下での名前、地下でしたこと、そんなことが書き込まれる幻影に男は怯えた。

だが、迂闊だった。 うっかりと『仲間』には、今のサイトの場所を打ち明けてしまっていたのだった。 それが、極めて厄介なことになることに気がつくのに時間がかかった。 しばらくして、 しつこく『仲間』からの誘いが、ISP のメールボックスに届くようになった。

男は迷わず、ISP を解約した。

が、『仲間』は嗅ぎつけて、 サイトのトップページに記載されたメールアドレスに何通もの督促メールを送ってきた。

今となっては、 『仲間』と自分をつなぐものはこのサイトしかない。 だから、サイトを閉鎖し、 再びインターネットの大海に飛び込めば容易に目をくらますことが出来る。 自分が何を書き、何を言い、そして、 どこまで知られているかはきちんと把握している。 だから、 このサイトを潰しても、 何食わぬ顔で、 今までとは正反対のことをやればよかった。

しかし、 この世界に来てからの交友関係、 そして、軌道に乗りはじめた自分のサイトのことを考えると、 ここでサイトを閉鎖してまったく違う人間として生きることが、 極めてもったいないことに思われた。

このサイトだって、最初は、日に一人か二人か来ないことが多かった。 何度めげそうになったかわからないが、 頑張ったおかげで、 今では日に 20 人近い人が来てくれる。 同じジャンルの別サイトの管理人とも、 ネット上だが、顔見知りになれた。 そして、 地下から這い上がってきたこの世界で、 一定の評価を与えられるようにもなった。

が、 じっと男を見つめている目があった。 男はどんな時にでも、 地下から注がれるその視線を忘れたことはなかった。 もしも、 この邪な視線がなければ、 プロフィールも、 リンク集も、掲示板もおけて、 いくらでも、 ここでコラムやエッセイが書けるはずだった。

別のサイトを別人として開設するとなると、 今までのファイルは全部廃棄しなければならなかった。 もちろん、 文体、語彙、使ったネタから何から何まで放棄して、 ゼロから築きあげねばならない。 そして、当然のことながら、 今まで築いた交友関係も全部断ち切る必要がある。 この損害は金銭に換算できるものではなかった。

煙草を咥えてぼんやりしていたが、 最後に、 もう潮時かもしれないなと、男は呟いた。

男は今まで自分が書いてきたものすべてに目を通した。 残念でならなかった。 せっかく、いい線まで来たのに、 今度ネットワークに現れる時には、 ここで使ったことは一切使えない。

何年もサイトを同じところで続けられるということが、 男には本当に羨ましかった。

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