律子は烏の声で目を覚ました。 いったい何時であろうか。 時計を見ると、5 時だった。 しかし、真夏なので、外は既に明るい。 道理で烏が鳴いているはずだと思うのが、 半分寝ぼけた頭脳では精一杯だったが、 異様な烏の声は律子の寝ぼけた頭脳に喝を入れた。
はっとして、律子は夫のウインドブレーカーを羽織り外に出た。 凄惨な光景だった。 血に染まったコットンが道路にばらまかれている。 以前に見た戦争映画 の一場面の野戦病院の光景か、 ホラー映画の一シーンが目の前に広がっていたのかと思ったくらいだった。 しかも、血染めのコットンを烏が咥えている。
しかし、 家の前の道路は平和な日本の道路であり、 野戦病院でもなければ、 流血の惨事がそこで起こったわけでもなかった。 コットンを染めていたものは経血であるとすぐに察しがついた。
要するに、 誰かが経血のついたコットンの入ったゴミを昨日の晩にうちに出した。 早起きな烏がそのゴミをつつき、 そして、 血生臭いコットンを烏がゴミ袋から引っ張り出して来た。 それだけの話で、 原因がわかればどうということはなかった。 事件が起こったわけではなく、 単に誰かがゴミを早く出しただけの話である。
しかし、このまま放っておくわけにはいかない。 生理自体は猟奇的でもなんでもないが、 血染めのコットンが道路にばらまかれているのは、 やはり普通とは言い難かった。 これが人目に晒されてはならない。 律子はゴム手袋をして、それらを全部拾い集め、 自分のうちのゴミと一緒に、 適当な時間にゴミ集積場に出すことにした。
律子は腹が立ってならなかった。 夜のうちにゴミを出してはいけないというのが決まりである。 なぜ、そういう決まりを守れないのだろうか?
夕食の際に、律子は夫にこのことを訴えてみた。
「あなた。ゴミを夜のうちに捨てる人がいるのよ」
「ん? それがなにか不都合でも?」
「あまり早くゴミを出すと、烏がつつくのよ」
「なるほど」
「しかも、今朝なんかは、
烏がゴミをつついた揚げ句に
血のついた使用済み生理用品を道路に散らかしていったのよ」
「う。食事中にやめないか」
「捨てたのは若い一人暮らしの女性ね。
まったく、最近の女の子は、あんなものが烏に暴かれて、
恥ずかしくないのかしら」
「別に、名前が書いてあるわけでもないだろうし、
生理があること自体は恥ずかしいことでもないだろう?
今の若い娘はそう割り切って考えているんだろうさ。きっと」
ゴミを集積場に出す規則を守らない人間がいるということに、
夫は無関心だった。
もしも、夫が律子の話を真面目に聞いていたら、 おそらく、律子は夕食の際に愚痴を夫に聞かせるだけで満足しただろう。 しかし、夫は家庭内の出来事に無頓着だった。
次の収集日だった。
律子が朝早く起きて家の前の集積場を見ると、 また、ゴミが出ている。 このままでは、また烏につつかれる。 そう思って、律子はゴミをいったん自分のうちのガレージまで運んだ。 ここなら、烏の目は届かず、ゴミもつつかれない。 しかし、一体誰が、ゴミを夜に出すのだろう? 律子は、犯人探しをする気になって、ゴミを改めてみることにした。 ゴミの中から、 女性の下着が現れた。 それは明らかに若い女性むけのものであった。 が、その下着は汚れたままだった。
危うく律子は戻しそうになった。
どうせ捨てるものだ。 わざわざ洗濯などする必要はない。 汚れた下着はそう主張していた。 しかし、律子は、そのような理屈に謂無い抵抗を感じた。
町内会のゴミ出しの規則を守らないのにも腹が立つが、 それにもまして、使用済みの生理用品を新聞などに包まず出したり、 汚れた下着をそのまま出す、若い娘たちの感覚に律子は苛立った。
律子はインターネットに自分のページを持つことにした。 ページの作成方法やファイルのアップロードの方法などは夫に教わった。 夫は自分の妻からページを持ちたいと言われた時に、 多少不審に思わないこともなかった。 引っ込み思案の律子が不特定多数に向けて、 情報発信するなど思ってもみなかったからだ。 だが、それは一瞬のことで、 それだけインターネットはポピュラーになったのだろうと、 思っただけだった。 現に主婦がページを持ち、掲示板を管理し、 そこで井戸端会議をするのは、 よく見かける光景だ。 律子もそういうことをしたいのだろうと思っただけだった。
律子は、男性の名前らしいハンドルを選んだ。 これもまたよくある話だ。 女性だとわかると、ストーキングされたり、 卑猥なメールを送りつけられたりする。 しかし、律子はそんなことが理由で男性のハンドルを選んだわけではなかった。
律子の作ったページはメインのコンテンツが日記であった。 どこにでもあるような構成である。 しかし、その日記がただものではなかった。 変態的な性欲を持った男性が、 若い女性の出したゴミを集め自慰に耽るというのが、 日記の主な内容だった。 あまりにも衝撃的な内容だったが、 大手の検索エンジンにも登録され、一日に何百というアクセスがあった。 エロとグロに満ちていても、 人はなぜかそういった内容に惹きつけられてしまう。 これが律子のサイトが繁盛した理由であった。 律子のサイトの訪問者は、 律子が仮想的に作り上げた男の行為に眉をひそめ、あざけり、笑った。 しかし、その日記は、スーパーに行けば嫌になるほど見かけるような、 一般的な家庭の主婦が書いたものであるとは、 誰も想像できなかった。
律子は、夜遅くゴミを出すとそういった変態男にゴミを漁られて、 自慰の「おかず」になってしまうのだと遠まわしに日記に書いた。 いくら、烏に下着や使用済みの生理用品をつつかれても平気な娘でも、 そういう人間が近所にいるかもしれないという可能性を突きつければ、 少しはゴミを出すルールも守るようになるかも知れないと思ったのだった。
既に、 律子は、自分の町内会のことなどどうでもよくなっていた。 問題なのは、世間の若い女性のモラルであった。 律子は若い女性を目の敵にし、 若い女性の出すゴミを片っ端から、 自分が作り上げた変態男の餌食にしてやった。
最初のうちは、ゴミを漁ったら、こういうものが出て来て、 自慰に耽ったということを淡々と書いただけだった。 ただし、文言は下劣で、卑猥なものになるように心を砕いたが、 無論、筆は滞りがちであった。 そういった下卑た文章を書くのは要領も得ず、不本意だったからだ。 また、自分で書きながら、戻しそうになったことも何度もあった。
そのうち、下卑た文章を書くことにも慣れて来た。 次第に、律子自身の感覚も麻痺し、 これでは衝撃が足りず、効果は十分ではないと思うようになった。 そのため、 あちこちの下劣なサイトを参考にして、 文章に磨きをかけた。 同時に、描写も次第に露骨になっていった。 たとえば、 下着の汚れを見て、持ち主の性器の形状が想像できる。 その結果、欲情し、自慰に耽った。 などということを、 とうていこの場にかけないような、語彙と言い回しを使って、 なおかつ、なるべく嫌悪感を催すように書いたこともしばしばだった。 しかし、それはすべて、感覚の麻痺のなせる業であった。
さらに、実際のゴミを参考にして、 ゴミのリストなどもきちんと日記に反映させることにした。 使用済みの生理用品や、汚れた下着。 そういったものについて精緻をきわめた描写を試みた。 その描写は真に迫り、 読者は、 まるで下着の汚点の一つ一つまで拡大鏡で見せつけられたような気分になった程だった。
ある日、 律子は若い一人暮らしの女性の出すゴミには、 生ゴミがほとんどないことに気がついた。 要するに、それは自炊しておらず、 コンビニの弁当やおにぎりで食事を済ませていることを意味していた。 もちろん、それは変態男の日記に反映された。 最近の若い娘は料理もせず、ゴミ捨てもろくにできない! なんという自堕落なことだろうかと、変態男は下卑た言葉で罵った。
その一方で、変態男は、下着を捨てるにしても、いったん洗濯し、 その後、鋏で切り刻んで捨てるべきだという忠告も忘れなかった。 自分のコレクションの対象である下着をそのように処理した上で捨てられたら、 ずいぶんと困るはずだが、 律子が創造した変態男は、時折、ゴミ捨ての作法にこだわった。 もしも、冷静にその日記を分析したら、ずいぶんな矛盾になるはずだが、 幸い誰もそれには気がつかなかった。
変態男が自慰に耽る場面を書くのは大変だった。 当然のことながら、律子には夫がいる。 だから、律子だって、女と男の間に起るすべてのことは心得ていた。 しかし、それでも、男性の自慰というのは想像で書くしかなかった。 今の日本には性の描写に関してはあらゆる意味でタブーはない。 たとえば、男女が交合している瞬間の写真もインターネットで見れるし、 セックスを撮影したビデオも入手できる。 しかし、男性の自慰を撮影したビデオばかりは売っていない。 こればかりは、いろいろな下劣なサイトを巡回して、 参考にするよりなかった。 夫に自分の目の前で自慰をしてもらえれば、 真に迫る緻密な描写もできただろうが、 さすがに、それは言い出せなかった。
日記の記述者たる変態男を創造するのも一苦労だった。 あらゆる人間から嫌悪されるような設定が望ましかった。 顔は醜く、生身の女性とは付き合えず、 非社交的で、長所や美点のかけらもない。 そういう設定にしたが、 完璧な人間もいないように、 その逆の人間も、また、存在しない。 存在しない人間を作りあげるのには、やはり無理があった。 ややともすると、人工的な作り物であることがばれそうな気がして、 律子はしばしば不安になった。
最近、明け方になると律子は寝室を抜けだして、 外に出ていく。 しかも、戻ってきた時には、異臭を漂わせていた。 一つ屋根の下に住んでいる夫に、これが気がつかないわけがなかった。 あるとき、密かに律子のあとをつけてみると、 ゴミ集積場から、夜のうちに出されたゴミを運んで来て、 ガレージでゴミを改めていた。 不審に思ったが、それでも、まだまだ読みは甘かった。 ゴミの持ち主を特定し、 夜間の投棄を責めるつもりなのだろうと想像するのが関の山だった。 もっとも、夫の読みが甘いのは仕方がない。 いったい誰が、 ゴミ漁りの日記を書くためにゴミのチェックをしているのだと、 想像できるだろうか。
そんなことが続いたある日、 夫は律子に向かって文句を言った。 何もそこまでして、犯人探しをする必要はないだろう。 だいたい、明け方に寝室を出入りされては目が覚めてしまう。 夫はそう言ったのだった。 もちろん、しばらくの間は律子は夫の言うところの「犯人探し」を自粛した。 既に律子は想像だけで、ゴミの緻密な描写を書くことができた。 だから、 ほとぼりが冷めるまでなら、とりあえず、それでなんとかなった。
近所の人間だって、律子の行動に気がついていた。 しかし、誰一人として、律子を怪しむわけでもなかったし、 責めるわけでもなかった。 ある朝、例によって、 自分が作り上げた変態男の餌食にするためのゴミを持ち帰ろうとした時に、 たまたま早く起きた近所の奥さんにその場を見られてしまったこともあった。 が、夜中にゴミを出した不心得者がいて、 このままだと烏につつかれるだけだから、 一旦自分のうちで預かるのだと言ったら、 感謝までされてしまったくらいだった。
今や律子は完璧な死角の中にあって、大手をふってゴミ漁りに集中できた。 律子のページはかなり有名になっていて、 インターネットをする人間の間では評判だったが、 誰もがみな、怪しい男がゴミ漁りをするところしか想像できなかった。 だから、主婦がゴミ漁りをしても、それは誰の目にも映らない。 先入観が盲点を作ったのである。
かくして、今日も律子はゴミを漁り、 若い女性の出したゴミを「おかず」に自慰に耽る変態男の日記を書きつづけている。