夢としりせば

天井が見えている。

愛の奔流が流れ去ったあとには、独特の気だるさが漂う。 俺も、亮子も二人並んで裸で天井を眺めていた。

「ねえ」
「ん? 何だい?」
「変な話なんだけど、 この部屋の天井はうちのとにているわ」
「あれ? 君は、洋室で寝ているんじゃなかったのか?」
「ここ数ヶ月は、主人とは別の部屋で寝ているのよ。 和室に布団を敷いて寝ているの」
「ああ、そうかぁ。 でも、和室の天井なんて似たりよったりだから、 別に似ていてもおかしくないだろう?」
「それがね…」
亮子はくすりと笑い、そして続けた。
「起きているような、寝ているような状態のときにね。 真っ先に天井が目に入るでしょ?」
「そりゃそうだが…」
「すると、この部屋にいるような錯覚を起こすの」
俺は亮子がいったい何を言いたいのかはかりかねた。
「で、あなたのあれが、 私の中に入っているような、そんな錯覚を起こすの」
「…」
俺は一瞬何がなんだがわからなかったが、 亮子の言っていることの強烈さにあてられて、 言葉を続けることができなかった。

亮子が言いたいことはこうである。 半覚醒の状態のときに、 自分の体に俺の陽物が挿入された時と同様の感覚を感じるのだという。 いずれにしても、幻覚に過ぎないが、 これは男の体には備わっていない種類の幻覚であることは確かだ。

おれは、ある国立大学の文学部の講師をしている。 年齢的には四十に近いが、まだ講師だ。 もっとも、こういうことは国文学の世界では珍しくない。 一方、亮子は四十後半の二児の母親である。 ちゃんと亭主もいる。 ようするに、俺たちは、正真正銘の不倫の仲ということだ。 子供二人を産んだということからもわかるように、 亮子の体は完全に熟している。 そして、 週に三、四回も俺の部屋にやってきた。 俺も俺で、平日であっても大学に行く必要などなかった。 実験も何もない、文科の大学教員の特権である。 だから、俺と亮子は、 はばかることなく、真っ昼間から痴態を演じた。

普通なら、亮子は俺の部屋で、一糸まとわず夕方まで過ごしたが、 さっきの亮子の言葉で俺はうわのそらになった。 適当に口実を設けて、亮子を早目に帰すことにした。

亮子が帰るや否や、 俺は、書棚から一冊の本を取り出した。 それには、 『古今和歌集』と書いてある。 なんの迷いもなく目当てのページを開くことができた。 そのページには短歌が印刷されている。 古今和歌集巻第十二の恋歌二の先頭にある歌だ。

題しらず       小野小町

思(おもひ)つゝ寝(ぬ)ればや人の見えつらむ
夢としりせば覚めざらましを

あまりに有名なので、 知らない人はいないだろう。 高校や中学校の教科書にも書いてあるほどだ。 通常、これには、 「繰り返し思っては寝ますので、 あの方があのように見えたのでしょうか? 夢だとわかっていれば覚めませんでしたのにねえ」 という解釈をあてるのが通説となっている。

しかし、この歌を詠んだのは小野小町である。 小野小町だって亮子以上に熟れた体をもてあましていたに違いない。 成熟した男女の間に交わされるメッセージとしては、 上の解釈はあまりにも奇麗ごとに過ぎないだろうか? それが、俺の疑問だった。 だいたい、いい歳をした成熟した大人が、 相手の顔ごときで、 「夢だとわかっていれば覚めませんでしたのにねえ」 などといった残念がり方をするものか。 それはそれで、夢があるが、現実はもっと即物的であるはずだ。 ただ、 『あの最中の快感』なら話は別だ。 「夢としりせばさめざらましを」 という一言には、 その快感を知る者にのみわかる説得力がある。

もっとも、いくらなんでも、 露骨に 「私の中にあなたの陽物が入っているのを感じました」 などとは言えない。 そこをうまくオブラートで包んで、 わかる人にはわかり、 わからない人には奇麗ごとしか映らないように歌うあたりに、 小野小町の文学的な手腕があるのだろう。

俺はしばらく、腕組みをしていた。

国文学の学会誌にこれを投稿しても、査読の段階でひっかかり、 掲載されないだろう。 悪くすると、 査読者あるいはその学閥の連中に、 このアイディアを横取りされかねない。 学会誌に投稿できないのは痛いが、 この解釈を埋もれさせるのも惜しい。

しかし、いい思いつきが浮かんできた。 ちょうど、婦人雑誌のコラムを執筆しているところだ。 それに書くのがいいだろう。 もっとも、内容が内容である。 うまく書かないと、 下品になりがちだ。 婦人雑誌の読者は、エロ、グロに飢えているが、 かといって、あまり露骨にしてもいけない。 そこで、数年前から流行している渡辺淳一の語り口で書くことにした。

俺は、原稿用紙を取り出し、 一行目に『夢としりせば』と書いた。 あとは、一気呵成に、 小野小町の歌の新解釈を書いた。 それは、 小野小町が自身の熟れた体をもてあまし、 その結果半覚醒の状態に、 交合のその瞬間と同じ感覚を感じたことが骨子となっている。 それを、下品にならないように、甘い文章で書いた。

予想通り、読者から大反響があった。 内容がエロであるにもかかわらず好評だったのには、俺が驚いた。 中には、エロでまみれた俺の文章に 「学問的な香りを感じ」 たなどと、 知った風な感想を書いてくる者もいる。 当然、 大学での人気も急上昇だ。 講義室からあふれるほどの学生が俺の講義を聞きにやってきた。 俺は絶頂をきわめ、 これなら、意外と教授になれるのは早いかもしれないなどと、 皮算用をした。

だが、破局はすぐにやってきた。

なぜ、女性にしか感じ得ぬ幻覚を独身の俺が知っているのかと、 疑義をはさんだ奴がいたのだ。 最初は知り合いの女性から聞いたのだととぼけていたが、 いつしか、不倫疑惑に発展していった。 そして、写真週刊誌に、 俺の部屋からでる亮子の写真が興味半分に掲載され、 俺は大学をやめざるを得なくなった。 不倫は犯罪ではないが、公務員として怪しからんという訳である。

「まあ、いいか…」
俺は、赤茶けた畳の上に寝転がり、 いつものうらぶれたアパートの天井を見ながらそう呟いた。

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