その男がネットワークの裏世界に現れたのはいつだろう? ある日、けちな掲示板荒らしの掲示板に突然現れ、 そして、いつの間にかインターネットの大海に消えてなくなった。
私はその男のことを知っている。 男は、ある大学の助手だった。 そして、ネットワークの管理も任されていた。
だが、ネットワークの管理は難しい。 男は本棚一つ分のマニュアルを読み、インターネットの技術系サイトをまわり、 利便性を向上させるための知識や、 セキュリティを向上させるための知識を身につけた。 それが、彼のすべての時間を奪っていった。 本業である筈の研究をする時間は与えられなかった。
それは、 男の講師昇進の話が出た時のことだった。 研究業績が少ないという理由で講師への昇進は見送られた。 男は四六時中ネットワークに縛りつけられ、 実験をする時間も文献を読む時間もなかったのだ、 だから、 研究なんか出来るわけがなかった。 ネットワークを安全、円滑に管理していた実績は、 業績とはみなされなかった。
男は、計算機を、そして、インターネットを怨んだ。 こんなものがなければ、とっくに、講師になっていたはずだった。 こんなものがあるばかりに、助手に甘んじなければならなかった。 しかも、次の機会がやってくるのは十数年も先の話だった。 その時には、もう五十に近くになっているはずだった。
これが、男が破壊神に変ったきっかけだった。 男は、できるだけ多くの計算機を乗っ取り、 管理者を困らせ、 そして、 ネットワークに不幸の種を撒き散らしたかった。 インターネットのおかげで、自分の人生は狂った。 だから、人生を狂わされた仕返しに、 インターネットを破壊したかった。 いや、インターネットや計算機のおかげで、 冷や飯を食わされる羽目になったのは自分だけではない筈だ。 ネットワーク管理者で、自分と同じ境遇の人間は多い筈だ。
男はネットワークの裏世界に出入りし、 サーバを乗っ取るためのプログラム、 セキュリティホールの情報、 ウイルス、 トロイの木馬、 ワーム など、 ありとあらゆる、 ネットワークに不幸を撒き散らす禍々しい知識を集め出した。
同時に、 掲示板の荒らし方も精力的に研究した。 短時間で、掲示板を破壊するプログラム、 複数の人格を使い分けて、掲示板の管理人を人間不信に追い込む技法、 掲示板の管理パスワードを推測するための辞書、 アカウントを削除させるように追い込む方法。 高度なものから、低級なものまで、 なんでも貪欲に吸収した。 もちろん、 プロクシ、ソックスなどのリストの入手も怠らなかった。 このインターネットが人間不信で満ち、 巨大な神経標本のような死んだケーブルの集合になるまでは、 つかまるのはごめんだった。 もとより、つかまるのは怖くなかった。 が、 これは復讐だ。 正当な復讐のために、官憲にとらわれて、法で復讐されるのは不合理だ! 逃げのびなければ、 自分の人生を狂わせたインターネットに復讐した意味がないではないか?
が、一人では出来ることは限られている。 男は早い段階から、自分の禍々しい知識の普及に努めた。 ここが他の裏世界の自称ハッカーとは違う点だ。 反権力、反体制を唱えていても、 結局、裏世界の中で名を売り、その筋の著名人になりたいというのが、 ごく普通の裏世界の自称ハッカーの夢である。 まともな社会では学歴が幅をきかすの対して、 単にこの世界ではスキルが幅をきかせているのに過ぎない。 だから、自分の技術は出し惜しみしながら、もったいぶって、 さもさも高度なものであるように見せかけるのが普通であった。 それに、笑止千万なことに、礼儀にうるさいのも、裏世界の住人の特徴だった。
しかし、男は乞われればなんでも教えた。 破壊の種を撒き散らすのにこれ以上の方法はないからだ。 男にとっては名前が売れることなんかどうでもよかった。 ただただ、方々の掲示板が荒らされ、サーバが乗っとられ、 サービスが停止し、 インターネットが無法地帯になることが、 なにより男の望んだことだった。 だから、男は丁寧に、紳士的に、優しく、破壊の技術を教えた。 単なる、『教えて君』にも、何度でも辛抱強く教えた。 知らない人間が見たら、男は人格者にみえた。 そして、それだけで人気も出た。 が、男の心には、 黒い泥のような復讐心がべっとりと塗りたくられていたことを誰も知らなかった。 破壊の知識を破壊の後継者を一人でも多く、増やしたかった。 復讐心が男を優しく紳士的にしていたのだった。
これは、裏世界の古参のハッカーたちにとって目ざわりだったから、 さまざまな方法で妨害を企てた。 サイトをつぶし、掲示板をつぶし、 リモートホストの IP アドレスをさらしたりもした。
大抵ならここで参ってしまうところだが、男は簡単には負けなかった。 何度サイトを潰されても、クラッキングの技術を公開した。 ISP も何度もかえた。 生き残れれば、この世界では勝ちである。 誰も拭えない、べっとりした復讐心を抱きながら、 男は何度でもネットワークに帰ってきた。
だが、男は虚しくなっていった。
こんなことをしても、ネットワークは破壊できない。 むしろ、クラッキングの技術に注目して、多くの人間が吸い寄せられてくる。 皮肉なことに、男の近傍のインターネットは盛況だった。
そして、ある日、男は完璧にネットワークを破壊する方法を見つけ出した。 時間はかかるが、これが一番確実そうだ。 自分からは一切ネットワークには関りを持たない。 ダウンロードするだけ、アクセスするだけ、 人の掲示板を読むだけ。 サイトに意味のあるものを置かず、 発言しないのが、一番の方法だと思った。 全員が消費者になれば、確実にインターネットは死ぬからだ。 つまり、無関心、受動的な態度が徹底すればいいだけなのだ。
そして、今日も男は、発言せず、なにもせず、 黒い復讐心だけを抱きながら、 ネットワーク上のリソースを消費するだけに徹している。