贔屓

今日も一日が終った。 校舎をでて校門に向かう。 後ろから、同僚の理科の教師の声が聞こえて来る。

「先生。ちょっと待って下さい」
「ああ、先生。私に何か?」

どうせ、何の話だかはわかり切っている。 しかし、この返事の方が無難だろう。

彼はやっと私に追いついた。 私が職員室を出るのを見て、急いで帰り支度をし、 私を追って来たのに違いなかった。 やや息がはずんでいる。

「先生のこと、かなり噂になっていますよ」
「噂って…。どんな噂なんですか?」

噂の内容だって、わかり切っている。 しかし、わざわざ私にこれを告げようと思った彼の親切心に 水をさすこともなかった。

「水島朝子のことです」
「はあ…」

ほら来た。 この話には飽き飽きしている。 彼は話を続けている。

「つまり、先生が水島朝子のことを…」
「贔屓にしているということですか?」

私はさりげなく助け舟を出した。 やはり言い出しにくいだろう。

「ええ。まあ、あくまで、噂なんですが…。 とにかく、そういう話が広まっています」
「そうなんですか」
「今日も、父兄から教頭に問い合わせがあったそうです」

恐らく、その問い合わせは『匿名の父兄』からのものに違いなかった。 そもそも、不祥事等といったことではないから、 他人がとやかく言うようなことではないと思うのだが、 こういう噂が広まると、必ず『匿名の父兄』の問い合わせが続く。 もっとも、私は独身なので、 その水島朝子と男女の仲になったとしても、 不祥事にすらならない。 しかし、不思議なのは噂の当事者である 水島朝子とその父兄からは一切の文句が来ないことである。

真面目に反応するのも馬鹿々々しいが、 かといって、無反応でもかえっていけない。 私は建前でお茶を濁すことにした。

「一応、私も教師なんで、 生徒との応対には公平を期すようにしています。 もっとも、公平とは言っても画一的になるとまた逆の弊害も出るので、 そこは注意するようにはしていますが…」
「そうですよね。先生に限って、そんなことはありませんよね。 いや、他人の噂とは言え、失礼なことを申し上げてすみませんでした。 しかし、噂が広まっているのは事実です。 気をつけて下さい。 あ。私こちらの方なので、これで失礼します」
「色々ありがとうございました。今日はお疲れ様でした」

私は彼に頭を下げ、見送った。

水島朝子というのは、三年生の女子生徒である。 活発で、積極的で、明るい子だ。 成績も悪くもないし、色々な委員もやっている。 教師である私が言うのは多分に問題があるだろうが、 まあ、可愛くて、 いわゆる美少女のカテゴリーに属するような女子高校生である。

噂は、私がそういう水島朝子に肩入れをしすぎているというところに 源を発している。 公式には、不公平のないようにしているというが、 実際には怪しいものだ。 我ながら、水島朝子には肩入れしすぎていると思う。 そういうわけで、 私が水島朝子を異性とみなして接しているのではないかと いう疑惑が出てもおかしくはない。

私も男だから、生徒といえども女として見ることはある。 ここで名前を挙げて告白はしないが、 好みのタイプとそうでないタイプの女子生徒というのは確かにいる。 しかし、 だからと言って、私が上のような噂に甘んじられるかと言うと それはまた別問題だ。 こういった噂は、見えやすく理解しやすい構造に飛びつく。 下らないものだ。


暑い季節になった。夏休みも近いある日、 私は校長に呼ばれて別の学校に赴任するように言い渡された。 私が勤めている県は広いので、 別の学校とは言ってもかなり離れた所にある。 これだけ離れれば、 教師と生徒との道ならぬ恋は成立しないだろうと考えたのに違いなかった。

まったくもって、ご苦労さまなことだ。 もっとも、私だって馘首は恐い。 それに独身なので、同一県内程度の転任ならさほど苦にならない。 私は転任することにした。


一年がすぎた。 水島朝子たちはとっくに卒業している筈だ。 そんなある日、水島朝子から手紙が来た。 あまりに恥ずかしいその手紙の内容をここに書く度胸は私にはない。 しかし、ここはとりあえず、私への恋情が綴ってあるといえば十分だろう。

無視すれば良かったのかも知れないが、 もう、水島朝子は私の生徒ではない。 もはや、私は教師として振舞う必要はなかった。

水島朝子様

お手紙ありがとうございます。 確かに、お手紙拝見しました。 しかし、 残念なことに、私はあなたの期待にそうことができません。

あなたが在学中の時には、言えませんでしたが、 私はあなたが大嫌いでした。 あなたは私がもっとも嫌うタイプの人間です。 私はあなたのすべてが我慢なりませんでした。 人を押し退ける強烈な自我、 鼻持ちならない自信…、 なにもかも嫌でなりませんでした。 それから、 存在を主張して止まないあなたの自我同様、 私はここにいるのだと言わんばかりの目障りなあなたの 肉体にいつもいつも辟易としていました。

しかし、こういう気持を抱いている以上、 私は他の生徒と同様に公平にあなたに接するわけにはいかなくなります。 そこで、嫌いで仕方ありませんでしたが、 敢えてあなたに好意的とも言える接し方をしました。 教師のくせに生徒をそこまで嫌悪してしまう 自分にやましいものを感じ、 それを露見するのを恐れて、 殊更あなたには優しくしたのです。

ですから、噂が広まった時には心外でした。 本当に好きな生徒が相手の噂なら、私も仕方がないと思えましたが、 こともあろうに、 嫌悪の対象でしかないあなたと私が いかにも男と女であるかのように噂されました。 いかに世間が低俗とはいえ、それだけは我慢がなりませんでした。

$Revision: 1.14 $