私はこの前までは、ある国立大学の文学部の助教授だった。 が、今となっては単なる失業者に過ぎない。 とりあえず、ちょっとした文章を書いてその日その日の糊口をしのいでいるが、 いかんせん肩書を失った身ではどこからも相手にされない。 今日は、なぜ、私が失職したかを書いて、 どこかの煽情的な雑誌にでも売り込むことにしよう。
私は奉職していた大学で、社会心理学を教えていた。 その日は、依頼された原稿の締切が近かったために徹夜をしていた。 今考えるとそれがいけなかったのかも知れない。 普段なら、 自分の講義がある前日にはなるべく早く寝るようにしていたのだが、 徹夜明けのぼうっとした頭脳で講義に臨まざるを得なかった。
季節は晩秋だった。 多少肌寒くなりはじめていた頃で、 学生もセーターを着るものが多かった。 我々のような大学の教師は学生の服装に季節を感じる人が多い。 暑くなって来ると女子学生の露出度はあがって来るし、 寒くなると、彼女たちは着ぶくれて来る。 それを見るにつけ、夏を実感し、冬を実感した。
話がずれたようだ。
私の講義は一方的に私が講義すると言う形式ではなく、 学生に議論をさせる時間もとってある。 ある程度基本的な学説などを紹介した後に、 学生に批判議論させる。 ある程度専門的な講義なので、受講者は少ない。 だから、そういうことを講義中にできるゆとりがあった。
いつになく、ある女子学生が気になっていた。 学説紹介の際にも、私の意識はその女子学生に向かっていた。 彼女は確か四月からずっと私の講義を聴講していて、 議論の際にも発言したことはある筈だが、 今日という今日まで、その学生には気がつかなかった。 そう言えば、この学生は夏場は夏場で、かなり露出度の高い 服装で、聴講していた筈だが、不思議と私の記憶には残っていない。
彼女は 極々ありきたりのネービーブルーのジーンズをはいており、 そして、 やわらかい感じの繊維で編まれたセーターを着ている。 型はタートルネックだ。 カシミアで編んであるのだろうか? 色はいわゆる駱駝色より淡めの色で、全体的には、 どう考えても、かなり地味な服装だった。
しかし、私の目は彼女から離せなくなっていた。 やわらかいふわふわした感じの繊維で編まれたそのセーターは 当然のことながら、胸のところがふくらんでいた。 手触りのよさそうなセーターの下には、 やわらかで、しなやかな乳房があるに違いなかった。 とても美しい形だった。 つんと乳房の頂点にあたる部分がわずかに上を向いており、 そこから、やわらかい円弧が続いている。 しかも、乳房は大きすぎず小さすぎないようだ。 あれはミロのヴィーナスの乳房の形そのままだ。 いや、それ以上に均整のとれた形をしている。 そして、ミロのヴィーナスとは違って、 いまこの目の前にあるそれからは、 触れた時の手触りの良さ、心地よさも伝わって来る。 ミロのヴィーナスの乳房は理想の極限に達しているが、 それが伝えているのは、理想的な形だけだ。 いくら、世界随一の美術品とはいえ、 大理石の彫像には限界がある。
馬鹿なことを考えてはいけない。 講義の最中に女子学生の乳房のことなど考えるとは…。 それにひょっとして、 今、私の視線はその学生の胸に注がれてはいなかっただろうか? もしもそうだとしたら、どんなことを言われるかわかったものではない。 とにかくまずい、学生に議論させた方がよさそうだ。
そう思って、私は、 学説の紹介を適当に切り上げて、学生に学説の批判をさせることにした。 これなら大丈夫だ。 私は、学生の議論を聞いている風を装い、適当に歩き回っていればいい。
ところで、 あの学生にはつき合っている男子学生はいただろうか? 私には学生どうしの事情など皆目わからない。 仮に、つき合っている相手がいるとして、 どの程度までつき合っているのだろうか? 最近の学生は早熟だから、 相当のところまでいっている可能性はある。 だとしたら、 つき合っている相手は、思う存分あの乳房を触り、 さすり、愛撫し、そして吸っているのに違いなかった。 私は嫉妬せざるを得なかった。 美のなんたるかも知らぬ、 性欲のはけぐちしか求めぬ馬鹿な青二才にあの乳房が独占されているとは、 いったい何という理不尽なことであろうか?
再び、私は乳房に意識を奪われていった…。 あの乳房はやわらかそうだ。 でも、恐らく、やわらかいだけではなく、触れたら、 したたかな反発をその手にかえして来るだろう。 カシミアのあのふわふわしたセーターの上から、 撫で、さすり、揉んだら、さぞかし気持の良いことであろう。
私の全神経とすべての思考はその女子学生の乳房に集中していた。 いったいいかにして、乳房の張りのある様を形容したら良いのか、 あるいは、その曲線を何にたとえて言えば良いのか…。 すべては、その乳房を言い表す語彙を探すことに集中した。 もはや、 私の眼前には、その女子学生の乳房しかなかった!
ああ、一度で良いから、あの乳房を愛撫したい。 触りたい。 いや、揉んでみたい。 どんな感触がするだろうか? 意外に抵抗があるに違いない。 ふてぶてしいほどぷりぷりとして、 いくら揉みしだいてもその形は崩れはしないだろう。
段々私の息は荒くなっていった。 性的な衝動がそうさせたのではない。 私の想像が作り上げた乳房の感触がこの手に感じられる。 私はそれに狂喜していた。
いけない。
私は後ろ手にして、 いかにも彼らの議論を聞いて熟慮しているような態度を装った。 しかし、実情は違う。 もう私の右手は暴走する寸前だった。 私がいくら命じてもこの右手は私の制御を離れ、 何をしでかすかわからなかった。 だから、左手で、右手を縛めるよりなかったのであった。 が、その時に災難は起こった。
「先生。質問があります」
こともあろうに、質問しているのは、その学生ではないか! 私の方を向くな。 私にその乳房の輪郭を見せるな。
「なんですか?」
「わからないことがあります」
「ですから、質問の内容を言って下さい」
「あのう。ちょっと、これを見て下さい。
図書館から借りて来た本にこういうことが書かれています。
多分、今の議論と関係あるかも知れません」
つまりは、その女子学生は自分を呼びつけている訳だ。 机の上に本を開いている。 どうも、本の或るページを指さしているようだ。 そして、開かれたページの上の空間には問題の乳房があった。 なぜ、こうして懊悩している私にそういう仕打ちをする? 何か恨みでもあるのか? しかし、私は学生の質問を拒絶する立場にはなかった。 仕方なく、学生の許に行った。
学生は本の一節を指さして何か言っている。 しかし、私には何も聞こえなかった。 私の視線は、その乳房に釘付けになっていた。 彼女は喋り、呼吸している。 その都度、わずかに乳房は上下に振動する。 乳首はこころもち上を向いているのだろう。 それが全体の形を整えているのだ。 つまりは、乳首が乳房全体をつり上げているような形になっている。 そして、乳房を包み込んでいるカシミアの繊維の一本一本まで 私には知覚することができた。 乳房の振動に呼応して、それらが震える様が、 私の目にははっきりと映っていた。 やわらかそうだ。 腰があり、愛撫すれば、 逆に愛撫した手を跳ね返すような反発もしそうだった。 そして、それは再び愛撫する手を喜ばせるに違いなかった。 ああ、あの乳房を愛撫したい。 揉んでみたい。 あの小憎らしい乳房のふてぶてしさを挑発してみたい! 次第に、気が遠くなっていく…。 頭が真っ白になり、私は記憶を失った。
「君ぃ」
あとから、人に聞かされたところによると、 尋常ならざる声で、 そう言うなり私は彼女の胸に手を伸ばし、 いきなり乳房を鷲掴みにしたらしい。 女子学生を羽交絞めにして、 虚ろな、死んだ目をして、ただひたすら、 祈るように乳房を揉みしだいていたらしい。 周りには腕力のある男子学生もいることにはいたが、 なす術がなかったという。 狂気に支配された人間を誰も止められはしなかった。
乳房を愛撫し、力を加え、力を抜き、手で包み込み、 やわらかさ、したたかさ、ふてぶてしさ、ぬくもりを堪能したのは覚えている。 何もかもが乳房に殺到していた。 私は触覚以外の全ての感覚を失っていた。 何も見えず、周囲の音も聞こえなかった。 暗黒の完全に無音の真空の世界で、 私は、ただひたすら、 その乳房の感触を貪っていた。