宇宙海賊のレシピ

俺は宇宙海賊。 今日も獲物を探して、宇宙をさまよう。

諸君、久しぶりだ。

その日も、例によって、紫(ゆかり)が獲物を見つけた。
「3 時ノ方向ニ、大型宇宙客船発見」
こういう時になると、家内はすばやかった。
「紫。情報を収集」
「リョウカイ」

「全長 2000m。大型宇宙客船ハ、個人所有ノ宇宙船ト推測」
「あら? 誰が所有しているの? そんな大きな船を持っているなんて、 きっとお金持ちに違いないわ」
「所有者ハ、オーベルブロート財閥ノ ユールゲン・オーベルブロート氏デス」
「オーベルブロート氏? いったい誰なのかしら? 紫。プロフィールを」
そこで私が口をはさんだ。
「紫に聞くほどのことじゃないよ。 ユールゲン・オーベルブロート氏は、 地球と火星に本拠を持つ大財閥の頭首で、 その傘下には食料生産会社、衣料品生産会社、 兵器会社、惑星間運輸会社などがある。 所有している財産は見当もつかないほどらしい。 確か、美食家で有名なはずだよ。 もっとも、あまり人前に姿を現さないので、 彼に会った人は少ないそうだ」
「そんなお金持ちなら、きっと気前もいいはずね」
家内は、もう今日の収穫を皮算用しているに違いない。
「うーん。どうかなぁ。 なんか気難しい感じの人みたいだし…」
と、異議を唱えてみたが、 家内はもう口紅を差している。
「まあ、やるだけやってみましょうよ」
さすがだ。私も家内の行動力を見習いたい。
「紫。オーベルブロートさんの船につないでちょうだい」
「リョウカイ。コネクション エスタブリッシュド。 通信デキマス」
「はい。ヒンメルブルグ号です。何か御用でしょうか?」
ディスプレイに映っているのは、 白髪頭の目の青い老人だった。 いい服装をしている。 如何にも上品そうだが、同時に神経質そうでもある。
「あら。オーベルブロートさん?」
「いいえ。わたくしは、 オーベルブロート家、 執事長のフリードリッヒ・アイゼンバッハです。 旦那様は、いま、お忙しいので、 わたくしが、御用を承ります」
なんと、執事なのに、 まるでどこかの国の貴族と見紛うようないでたちであった。 私はのけぞるところであったが、 家内も良家の令嬢であったので、 こういう場合には強かった。
「あら、そうでしたの? これは失礼をしてしまいましたわ。 しかし、 さすがにオベールブロート家ともなると、 執事さんの格式も段違いね。 ところで、アイゼンバッハさん、 お願いがあるの。聞いてくださらないこと」
「はあ。私は単なる執事長ですので…」
「アイゼンバッハ。もう良い。 私が直接話す」
と、突然に執事長の声を若い男がさえぎった。 今度は、長い金髪のこれまた目の青い青年であった。 年齢は 20 歳前後ぐらいであろうか。 なんというか、 少女漫画などに出てくる王子様のようないでたちと言えば、 だいたい想像がつくだろう。 こういう人は、映画か芝居の中にしか存在しないと思っていたので、 私は、ただただ、ぽかんとしていた。
「あら? あなたはどなた?」
「私は、ユールゲン・オーベルブロートの息子で、 アンドレア・オーベルブロートと申します。 奥様。よろしければ、むさくるしい船ですが、 ご一緒にお茶でもいかがでしょうか? お話は、その折にでも伺いたいと思いますが」
「うれしいわ。 それでは、お言葉に甘えて、そうさせていただきますわ」
その若い男は、女性であったら、例外なく陥落してしまうような 甘い声で、しかも、みえみえの気障ぶりを丸出しで、 家内をお茶に誘った。

もっとも、 私は、大富豪なんかと一緒にお茶なんて柄じゃないし、 作法もわからないので、行きたくはなかった。 かといって、家内ひとりを送りこむわけにはいかない。 しぶしぶ、家内についていった。 正直言って、私の立場は、夫というよりもは、 下僕かなんかに近かった。 茜と涼のお守りは紫に頼んで、 私と家内は、 ヒンメルブルグ号からやってきたランチで、 ビオラ号から出発した。

ヒンメルブルグ号に搭乗した私たちを待っていたのは、 恐らく、漫画の中でしかお目にかかれないような、 時代がかった光景だった。 黒づくめのギャルソンたち、 コスプレイヤーと見間違えてしまうような、 美人ぞろいのメイドたちが船内のあちこちにいた。 調度品もすごかった。 楓や樫の一枚板で作られた猫足のテーブル。 自然木で作られた家具なんて、 博物館の展示品か文化財だけだと思っていたが、 この船ではそれらを日常的に使っている。 さらに、人工繊維ではなくて、天然繊維で織られた絨毯もあった。 どれもこれもが、漫画や映画の世界でしか見たことがなかったものだ。 私は目眩がしてきた。 家内だって、良家の出身とはいっても、 瞠目しっぱなしだった。 もっとも、家内の偉いところは、 そういうところを表に出さないところにある。

私たち夫婦は、とある部屋に通された。 すでにお茶の準備がととのっている。 私たちが部屋に通されると、すぐに、 さっきの執事長のアイゼンバッハが現れた。
「若旦那様は、すぐにおみえになります。 おかけになって、お待ちください」
そういうなり、執事長はベルを鳴らした。 豪勢なギャルソンたちとメイドたちが入って来て、 見たこともない芸術品のようなお菓子を食べきれないほど運んできた。

「お待たせしてすみません」
例の若い気障男が、 やはりメイドを二人ばかり引き連れて部屋に入ってきた。 かくして、恐るべきお茶会が始まった。

「お口に合いますかどうか、わかりませんが、 地球産のダージリンです。 とりあえず、フラワリー・オレンジペコということなんですが…。 よろしければ、私がお注ぎしましょう」
「あら、久しぶりだわね。地球のお茶なんて。 それにお手を煩わせてしまって…、感激ですわ」
地球産のダージリンなんて、 特権階級でもなければ飲めない代物だ。 それだけでも、腰を抜かしてしまいそうだが、 例によって家内は図太い。 一口お茶に口をつけて、当然のようにいった。
「ダージリンも結構ですけど、 私はどちらかというと、アール・グレイの方が好みですの。 ラプサンスーションを一割ほどブレンドしたものが好きですわ」
いくらなんだって、 その日その日の生活に追われている宇宙海賊ごときが言う台詞ではなかったが、 家内はしゃあしゃあとお茶のリクエストをした。
「あ。奥様は、チャイニーズ・フレーバーのアール・グレイが よろしかったですか? これは大変な失礼なことを致しました。 ミランダ。ジュリアン。お茶を変えなさい」
気障男は、自分が引き連れてきたメイド二人にお茶の交換を命じた。 私は思わず、もったいないと、叫んでしまいそうになったが、 家内が、私をつねったために、「あ」としか声が出なかった。

「ところで、奥様。いったい、当家になんの御用でしょうか?」
「まったく言い出しづらいことなんですの。 ちょっと、持ち合わせが不足してきましたので、 よろしければ、御用立てて頂きたいと思ったんですの」
もちろん、 家内は相手が 「金を返せ」 などとけちなことを言い出せないことを読んだ上で言っているのである。
「それは、それは。さぞかしお困りでしょう。 些少ですが、私がご用立ていたしましょう。 返せなどとは、申し上げません。 困った時はお互い様ですから」
若い気障男は、家内の戦略にはまっているようだ。
「しかし、もしよろしければ。 ええ、もちろん、もしよろしければの話ですが、 オーベルブロート家の財産丸ごと御用立てしてもよろしいですよ」
「はぁ」
一瞬、意味がわからなかったが、 どうやらこの気障男は家内を口説いてるようだ。 つまり、自分と一緒になれば、オーベルブロート家の財産は 使い放題というわけである。
「あら、嬉しいですわ」
ああ、ついに私は家内に見捨てられるのだろうか? 家内は言葉を続けている。
「でも、ご覧の通り、私は夫を持つ身ですし、 船には子供も二人おりますの。 アンドレア様には、私なんぞもったいないですわ」
私は、ほっとした。 これで夫婦の危機も去ったかと思ったが、 気障男も引っ込んでいなかった。
「いや。奥様。私はそんなことは気にしません。 私はあなたを、一目見て愛してしまいました。 お子様は私がひきとりましょう。 もちろん、 ご主人のことも悪くならないように取り計らわさせていただきます」
どうも、気障男は家内を見て、くらくらしてしまったらしかった。 困ったことになったと、私は思ったが、 同時に、どこかで面白がっていた。 この気障男は家内のことをよく知りもしないで、 ひとめぼれしてしまったに違いない。 私は、嫉妬する以前に、女性に不案内な、 この青年に同情してしまった。
「あ、やめといた方がいいですよ。きっと、後悔…」
思わず、自分の立場を省みずに忠告してしまったが、 例によって、家内につねられたので、先が続かなかった。
「ご主人のお気持ちもお察しします。 しかし、もしミランダとか、ジュリアンなんかで、よろしければ…」
気障男は代わりをあてがってでも、 私の家内と一緒になりたいらしい。 ついつい、ミランダやジュリアンと我が家内を見比べてしまった。 気がつくと、気障男は家内の手を握っている。
「奥様。どうでしょうか?」
「あら、もったいない」
気障男は、自分の美青年ぶりと、家の財産にものを言わせて、 家内を口説きにかかっている。

「アンドレア様。ちょっと、手をはなしてくださりません?」
「奥様。そんなことをおっしゃらずに…」
どうも、家内は切れかかっているようだ。 嫌な予感がする。と、その次の瞬間…
「いいかげんにしなさい。 坊やが何を言っているのかしら? 親の財産にものを言わせようなんて最低ね。 女に貢がせるようじゃなきゃ、 本物じゃないわよ」
そういうなり、家内は美青年に平手打ちを食らわした。 青ざめたギャルソンとメイドたちが一斉にアンドレアに駆け寄る。

「さ。あなた。ビオラ号に帰りましょう」
「待て。二人を逃がすな」
かわいそうなアンドレアは、 家内の平手打ちのせいで、唇を切ったようだ。 しかし、 口の血を拭いながらも、召し使いたちに命じている。
「しつこいわね。あなた。逃げるわよ」
やれやれ、また騒動だ。 しかし、とりあえず、 アンドレアが落ち着くまで、 逃げたほうがよさそうな気もした。 彼だってプライドはあるだろう。 家内のおかげで、彼のプライドは大いに傷つけられ、 その結果、彼が逆上したとしても無理もなかった。 とにかく、 私たちはお茶を飲んでいた部屋から外に飛び出した。

あとはただひたすら、鬼ごっこだった。 ギャルソンやメイドたちが追いかけてくる。 揚げ句の果てに、船内のセキュリティシステムも私たちを追尾しはじめた。

廊下を走っていたのでは、監視カメラから逃れようもないので、 とりあえず、 『クリーニング・ルーム』と書いてある部屋に飛び込んだ。 ドアに耳をつけて、廊下の様子をうかがっていると、 走る足音が部屋の前を通り過ぎていく。

どうやら、うまくギャルソンやメイドたちをまいたようだ。 私は家内に相談する。
「えーと。これからどうするの?」
「とりあえず、ランチを探すのが先でしょ。 それで、逃げるのよ」
「しかし、いい玉の輿を逃したね。残念でしょう?」
落ち着いたところで、ちょっと嫌味を言ってみたくなった。
「ふざけないでよ。 あんな、わがまま坊やなんかごめんよ。 もっとも、財産は魅力的だけど…」
「今からでも、間に合うんじゃ?」
「あら。あなた、ミランダとジュリアンの方が、 私よりもいいのかしら?」
「おいおい。そんなことないよ。君が一番さ」
「まあ。この話は後にしましょ。それよりも、 ここにギャルソンとメイドの衣装があるから、 これに着替えてランチを探さないと」
「そうだね」

家内は、素早く下着姿になって、サイズのあう服を物色し出した。 家内の下着姿を見ながら、つくづく、 美人の妻をもつことの大変さを噛みしめていたが、 家内に急きたてられて私もギャルソンに変身した。
「いやになるわね。 私たちの晴れ着よりも、メイドたちの衣装の方が物がいいわ」
「そうだね。これは天然繊維の生地だ」
「今日着てきた服は、置いていきましょう。 その代わり、このメイドさんの衣装をもらうわ。 あなたも、そのギャルソン姿似合ってよ」

二人して、とんでもない時代衣装をまとって廊下を歩き、 ランチを探した。 何度、ギャルソンやメイドたちとすれちがったかわからない。 しかし、私たちは変装をしているから、彼らにもわからない。 そうやって安心していると、前から年取った執事がやってくるのが見える。 まずい。アイゼンバッハだ。
「困ったな。例の、執事長だ」
「どうしましょう?」
「とりあえず、うつむいて、顔を見られないようにして、 やり過ごすしかないな」
しかし、 さすがにオーベルブロート家の執事長だけのことはあった。
「おや? そんな格好をされて、いかがされましたか? アンドレア様がお待ちかねですよ」
「あら。私たち夫婦はコスプレが趣味ですの」
家内は、しょうもない言い訳をしたが、 そんなことで、勘弁してくれるアイゼンバッハではなかった。
「それはそれは、結構なご趣味で…」
そう言うなり、 アイゼンバッハは近くのセキュリティ通報ボタンを押した。

がんがんと、警報ベルが鳴る。 この調子だと、取り囲まれるのは時間の問題だ。
「いやあ、アイゼンバッハさん。 私たちは、アメフトも好きなんですよ」
そういうが早いか、二人して、アイゼンバッハにタックルして、 駆け出した。

「参ったな。やっぱり、アイゼンバッハは切れ者だな」
「あなた。この部屋に入りましょう。 このままでは、袋の鼠よ」
「うん」
と、いって飛び込んだのが、『0 番厨房』だった。

入るなり、いきなり、そこにいたおっさんに怒鳴られた。
「こら。わしの厨房は遊び場じゃないぞ」
腹の出た、髪の薄い、ひげを生やしたおっさんだった。 どうも、この厨房のシェフらしい。 前掛けに調味料のしみが沢山ついている。 それはまさに、 外国映画に出てくる場末の大衆食堂の親父のいでたちであった。
「あ、すみません」
「うむ。見ない顔だな。いったい、そんなにあわててどうした?」
「あのう。追いかけられているんです」
家内が話に割り込んだ。
「じゃあ、ここにいるが良い。が、わしの邪魔はしないように。 うるさい奴は大嫌いなんでな」
しかし、そのおやじの作っているものが気になった。
「それは、海老と帆立のクリームスープですか?」
「うん。そうだが…。お前さんは、料理に詳しいのか?」
「ええ。毎日作らされていますから」
「あなた。よそであまり変なこと吹聴しないでよ」
「あははは。女房の尻に敷かれとるな。 まあ、それもいいだろう。 尻に敷かれるのも、女房あってのことだからな」
おやじは大笑いしていた。

「ところで、お前さんは何かうまい料理を知っておるか?」
「まあ、ちょっとは」
「寿司とか天ぷらはだめだぞ。その程度なら、 わしも作ったことあるからな」
「いや。カレーですよ。得意なのは」
「カレーなら、本場のインドのカレーの作り方を 何通りも知っておるよ。つまらんな」
「いや、そうじゃなくて。純日本風かつ家庭料理風のカレーライスです」
「うむ。わしとしたことが、ついぞ、そんなものは聞いたことがないな。 どうだ、作れるか? もしも、うまかったら、 お前さんらを助けてやってもいいぞ」
「ああ、でもここには材料はあるかな?」
「馬鹿なことを言うもんじゃない。 わしの厨房には太陽系で手に入るたいていの食材がそろっておる」
「え? それはすごいですね。 じゃあ、じゃがいも、なす、人参、玉ねぎ、豚肉はありますか?」
「もちろんだとも」
「あと、日本のお米と、それから、カレーの素がいりますよ」
「米はあると思うが、カレーの素はわからんな。 ちょっと、食材庫を探してみてくれんかな」
家内が割り込んだ。
「あなた。こんな専門の料理人を相手に、 カレー・ルーを使うカレーを作るなんて…。 やめた方がいいわよ。 恥をかくだけよ」
「だって、うちじゃ、みんなおいしがって食べるじゃないか?」
「でも、 オーベルブロート家のお抱えのシェフがそんなものおいしいと思うかしら?」
「まあ、やってみるしかないよ」
横で、おやじが聞いている。
「わしも一口食べてみたいな」
「わかりました。作ってみましょう」
「そうかそうか。じゃ、これを使え」
おやじは前掛けを投げてよこした。 J と刺繍がしてある。

さて、私は前掛けを借りて、調理にとりかかった。 まず、じゃがいもの皮をむく。 時期にもよるが、芽には毒があるから、取り除かないといけない。 皮をむいたら、適当に切ればいい。 できれば、大きさを揃えるのがいいが、あまり神経質になることもない。 そうしたら、鍋に水を適当にはり、じゃがいもを放りこみ火にかける。 その間に、他の野菜を切る。 なすとにんじんは、輪切り、ないしは、くし切りにする。 玉ねぎは一つか二つ程度、半分に割って、ざくざくと切る。 で、鍋に放り込む。

ここまではよかったが、一つ困ったことがあった。
「ここには、電気炊飯器はないんですか?」
「なんだ、それは?」
そういうところを見ると、どうもないようだ。
「あ、それじゃいいです。鍋でご飯炊きますから」
「あなた、鍋でご飯炊いたことあるの?」
「まあ、なんとかなるよ」
昔、母が指の関節一つ分などと言っていたことがあった。 それを思い出したところだった。 もっとも、人によって、指の関節一つ分の長さは違う。 だから、そんなことで、正確に水の計量ができるわけがない。 しかし、わらにもすがる思いで、試してみた。

普段使っている炊飯器に近い大きさの鍋を探し、 米を研いで入れる。 水面を指の関節一つ分米よりも高くなるようにした。 普段米を炊いている時の記憶だと、ちょっと水が多めだ。 目分量で、水を減らす。 あとは、運を天に任せて火にかけた。 恐らく、カレーライス用にはやや柔らかめのご飯が炊けるだろうが、 食べられないほどでもないはずだ。

「ふむふむ」
おやじはさっきから、この様子を見ている。 鍋の野菜が煮えた。今度は、豚肉を入れる。
「火を通さないで、そのまま入れるのか?」
おやじが聞いてくる。
「ええ、いいんです。ただし、肉は、薄くスライスされた、 肩肉とバラ肉を混ぜたのを使います。 ロースなんかのかたまりを使ううちもありますが、 その場合には、あらかじめ外側を炒めるんです。 でも、わが家じゃ、このスライス肉を使ってますよ」
豚肉に火が通ったところで、 いよいよカレー・ルーの登場だ。 これは家内が食材庫から見つけ出してきた。 うちでは、子供がいる関係上、あまり辛くするわけにはいかないし、 かといって、甘口では大人が物足りない。 だから『中辛』を使う。 幸いなことに『中辛』のカレー・ルーがあった。

それを割って、鍋に放り込む。 火を弱火にして、溶かし、こげないように火を通す。

ご飯も炊き上がった。 炊飯器を使えば、だいたい 45 分程度かかるから、 それを目安にすればいいだろう。

カレーライスなんかまるで似合わない豪華な皿にご飯を盛った。 カレー用のご飯としては柔らかめだが、ちゃんと炊けていた。 できたカレーを上から、まんべんなくかける。 うちでは、カレーとご飯を分けて盛りつけない。 容赦なく、上からかける。 家庭のカレーはこうでなくてはならない。 これに、らっきょうか福神漬けがあれば言うことないが、 さすがのオーベルブロート家の食材庫であっても、 それだけはなかった。

「うまい!」
おやじは、そういうなり無言になって、カレーをぱくついている。
「あら、ご飯うまく炊けているわね。 やっぱり、あなたは料理が上手ね」
「うん。ご飯が何とかなって、助かったよ」
「もう一皿いいかな? 簡単な料理の割には、うまいな」
あっという間に、おやじは一皿平らげてしまったようだ。 未練がましく、おやじは銀のスプーンをなめている。
「ああ、どうぞ。どうぞ。私が盛りましょう」

と、そこに、アイゼンバッハとアンドレアが乗りこんできた。
「見つけたぞ。ここにいたのか? 道理で見つからないわけだ」
と、いきなり、おやじが怒鳴り出す。
「アンドレア。いいかげんにせんか。 ここは、遊び場じゃないぞ。何度言ったらわかるんだ?」
「あ、パパ。ごめんなさい。でも、この二人は…」
私と家内は狐につままれたようになった。
「パパって…?」
「あ、そうか! この前掛けの J は、ユールゲンのジェーなのかあ」
前掛けを見て私はつぶやいた。 それを聞いたアイゼンバッハがすかさず、 場違いなフォローを入れた。
「いいえ。ヨットです」
おやじは、食事を邪魔されて頭にきたらしい。
「こら、アンドレア。 お前、この二人に何をした?」

アンドレアはしゅんとなって、 いきさつをユールゲン・オーベルブロート氏に語った。

私も家内も、このおやじが大財閥の頭首であることに納得がいかなかった。 どうみても、場末の食堂のシェフ程度にしか見えない。 しかし、アンドレアの態度を見る限り、 このおやじがユールゲンその人であることは間違いがないようだった。

「アンドレア。この馬鹿者が!」
おやじは顔を真っ赤にして怒鳴っている。
「まあまあ、そう怒らずに…」
家内が、なだめにかかった。
「だって…。だって、パパ。この人、ママに似ていたから…」
嫌味な程気障なアンドレア君はべそをかき出している。 と、突然堰を切ったようになった。
「ママ。ママ」
アンドレアは、家内に抱きつくと家内の胸に顔をうずめて、 わんわん、泣き出した。 私は、あっけにとられていた。 これでは、まるで、うちの茜と変わりない。
「よさんか!アンドレア!」
おやじは、アンドレアを家内から引き離そうとした。 しかし、家内はおやじに目くばせして、 このまま、放っておくように合図した。 私も賛成だった。 今、アンドレアを引き離すのはかわいそうだ。
「すまない。この子が小さい時に、母親に死なれて、 今でも、それが忘れられんのだろう。 言われてみれば、確かにお前さんには、 死んだわしの女房の面影があるな」
アンドレアはまだ泣いている。 家内は、まるで自分の子供のように、アンドレアの頭をなでている。 おやじはアンドレアに話しかける。
「しかしな、アンドレア。 このひとは、人の奥さんだ。 こればかりはどうしようもない。 それに、女房になったとしても、お前の母親にはなれんぞ。 この世の中には、金で買えるものと買えないものがある。 そのへんをわきまえることだな」

「うん。パパ」
アンドレアは、まだ泣きじゃくっているが、おやじに説得されて、 うなずいている。

「ところで、オーベルブロートさん。 なんで、こんなところにいらっしゃるんでしょうか? いくらでもお抱えのシェフがいるのに…」
「女房の味だけは、いくら腕利きのシェフでも出せんよ。 わしは、アンドレアの気持ちがわかっていたんで、 女房に死なれてから、 ずっとこうして自分とアンドレアの食事を作っておる」
「じゃ、奥さんは、こんな大富豪の家にいたのに、御自身で料理を?」
「うんうん。あいつは言っておったよ。 『いくら金があっても、自分の身は自分で養いたい』とな。 口癖みたいなもんだった」
「そうだったんですか…。ご立派な奥さんですね」
「しかし、アンドレアが申し訳けないことをした。 それに、カレー。うまかった。 お前さんが教えてくれたレシピは、しっかりと 覚えておくよ。 このレシピは値千金だな」
「いえいえ」
「まあ、金持ちの悪い癖だが、 お礼とおわびは金でしかできん。 お前さんのレシピなんかは、金で買えないものの代表みたいなもんだが、 アンドレアの話を聞くと、お前さんたちも金で困っている様子。 とりあえず、アイゼンバッハから金を受け取ってくれ」
「いや、そんな、お金なんてもらうようなもんじゃないですよ」
「まあ、そういわずに…。 そうそう。それから、落ち着いたら、うちに来て、 また新しいレシピを教えてくれ。頼んだぞ」
「新しいレシピですか…。じゃあ、油そばなんかどうでしょう?」
「うむ。油そば? それも聞いたことがないな。 今度絶対にそのレシピを教えてくれ。約束だからな」
「はい」
アンドレアが割り込んだ。
「僕も、奥さんにまた会いたいです。 甘えたいです。 今回はごめんなさい」
アンドレアは、はれた目で家内に訴えた。
「いいわよ。あなたも大変なのね。私の胸でよかったら、 いくらでも貸してあげるから」
ちょっと、妬ましく感じた私だったが、 アンドレア君ならいいかもと、思って、黙っていた。

かくして、過分なお金をオーベルブロートさんからもらい、ビオラ号に戻った。

「ねえ。あなた。私にも料理を教えてよ」
「ん? なんだって、急にそんなことを?」
「あの子に、アンドレアに、作って食べさせたいのよ」
「それはいい考えだね。 じゃ、まずは、麻婆豆腐の作り方からいこうか? さあ、エプロンしてはじめよう!」
「はいはい。先生」

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