台風

騒ぎがはじまったのは、雨雲が低くたれこめた真冬の土曜日の午後だった。

これが○○賞を受賞した私の作品の書き出しだった。 この小説の受賞がきっかけで、 私は、人気作家の仲間入りを果たした。 私の文章は幻想的で、独自の世界を持っていた。 そういった私の前例のない作品をみて、 批評家の中には 「本当の意味でセルフ・プロデュースができた作家」 という者もいた。

印税も多く入り、私の生活は一気に豊かになった。 金が入ると当然私は遊んだ。 そして、 六本木や銀座の飲み屋で遊んでいるうちに知りあったのが、 綾子である。 最初のうちは、綾子との交際も内密にすませていたが、 今となっては、綾子と私の関係は公然の秘密となっている。

もちろん、女房にもばれているが、 女房は文句をいわない。 女房も不倫しているからだ。 それでも、あいかわらず、女房は女房だった。 私としても、女房としても、 そんな冷えた夫婦生活を続ける必要もないのだが、 女房は膨大な額の慰謝料を要求し、離婚に応じなかった。

今の私には、払えない額ではなかったが、 どうしても納得がいかなかった。 今の財産は私の文才だけで築き上げたものだ。 もちろん、私だって、内助の功を認めるのにやぶさかではない。 が、あの女は私が作家として売れるまで、 何一つ協力したわけではなかった。

しかし、私は、女房と別れて、綾子と一緒になりたかった。 こうなったら、あの女を殺すしかない。 そう思って毎日を過ごしていたら、 チャンスは意外に早くやってきた。

私は中国地方に講演旅行に出かけることになったのだった。 当然、綾子同伴であった。 関係者には広く知れ渡っていることなので、 別に隠すこともなかった。 さて、 岡山、広島で講演する前に、私は城崎に立ち寄った。 ご多分にもれず、 綾子と一緒に外湯などをまわり、 さらに、 名物の蟹を買い、家に宅急便で送ることにした。

電話をすると、女房が出た。 珍しいことだ。大方、 何歳も若い男と不倫しているのではないかと思ったが、 今日はおとなしく家にいた。
「はい」
「おれだ」
「あなたなの? ずいぶんと珍しいじゃない。 旅行中に電話なんて…。 ところで何か用事?」
「いま城崎だ。蟹を送った。明日の晩の 8 時につくように、 時間指定で送った。なまものだから、必ず、家にいろよ」
「あら、あなたが珍しいわね。土産物なんて…。 でも、慰謝料はビタ一文まけるつもりはないわよ」
「ふん。そんなけちなことは言うつもりはないさ。 それじゃ頼むぞ」

あの、強欲女が。せっかく蟹を送ってやるというのに…。 もっとも、蟹を送るのは愛情からでもなければ、 慰謝料を負けさせるためでもなかった。 殺人罪に問われないためのアリバイ工作の一環だ。

次の日の昼過ぎ、私と綾子は広島に移動した。 さて、今日は長い一日になる。 台風が接近しているのが心配だが、 まだまだ大丈夫だ。 台風はまだ、九州あたりだろう。 それに、今日を逃しては私の計画を実行する機会は かなり先になってしまう。 今日やるしかない。

私は綾子とホテルに午後 3 時ごろチェックインすると、 すぐさまホテルを抜け出した。 広島発 17:00 の ANA 680 便に乗らなければならない。 これに乗れば、羽田には 18 時 20 分には着く。

予定通り、余裕をもって自宅にたどりついた。 それどころか、手持ち無沙汰になるほどだった。 途中で時間を潰して、19:30 に家に戻る。 もちろん、 女房は私が戻ってきたことを怪しんだ。 しかし、私は、台風で講演会はキャンセルになったと言い訳した。 それに、いつも私は、荷物を宅急便で送るので、 手ぶらでも怪しまれなかった。

20 時だ。

予定通り宅急便の配達人がチャイムを鳴らす。
「あ、あなたの送った蟹ね」
「悪いが、手が離せない。ちょっと受け取ってくれないか?」
私は適当に口実を設けて、女房に応対させた。 これで、女房が 20 時までは生きていたことの証人が作れた。 これ以上ぐずぐずするわけにはいかない。

「ね、君の足に触らせてくれないか」
「あら、欲しくなったの?」
女房とはここ最近縁遠くなっていたが、 私が女房とセックスをする場合には、 必ず、足をさするのが、癖だった。 だから、女房はそう思ったのだろう。 冷え切っている夫婦だったが、 お互いの性欲を処理するためのことは続いていたのである。
「まあ、そんなところだ」
「あなたも、見下げ果てた人ね。好きにしなさいよ」
「そうか…」
女房は立っている。 いつものように、 私はひざまずくようにして、女房の前でかがんで、 足に手をかけた。 いつもなら、思い出すのも汚らわしいことが始まるのだったが、 今日でそれも最後だった。

私は足に手をかけるなり、女房を転倒させた。 どうやら、後頭部を打ったらしい。ぐったりして、泡を吹いている。

さて急がないといけない。 念には念を入れて、首を絞め、 偽装工作をした。 届いた宅急便を開けた。蟹と一緒に、着替え一式が入っている。 それに着替えて、すぐに部屋を出た。

今は 20 時 30 分。 21:30 羽田発の JAL 935 便に乗らなければならない。 これに乗れば、 22 時 45 分には、関西国際空港に着く。 その時間なら、 関空から列車で天王寺まで行き、環状線でも使えば、 0 時 30 分前後には大阪駅に着く。 これなら、大阪駅 1 時 9 分発の 『さくら』と『はやぶさ』を連結した寝台特急に余裕で乗れるだろう。 これが広島に着くのは、翌朝の 5 時 21 分。 ホテルについた段階で、 綾子の携帯に電話をして非常口を開けてもらい、 そこから何食わぬ顔をして部屋に戻ればいいだけだ。

むろん、刑事どもは真っ先に私を疑うだろうが、 羽田発広島行きの最終の飛行機は ANA 685 便で、出発は 19 時 45 分だ。 もちろん、新幹線などはとっくに最終が出た後だ。 19 時 52 分発の、のぞみ 29 号が広島まで行く最後の奴だが、 この時間に女房が生きていることは、 宅急便の配達員が証明してくれる。

刑事どもが考えそうな、最初のシナリオでは 私が女房を殺せないことは明らかなので、 別の線で捜査を進めるはずだ。 もちろん、ダイヤを綿密に調べれば、 殺人が可能であることはわかる。 しかし、それがわかるのは、 かなり時間がたってからだろう。 だいたいひと月ぐらいたった後に違いない。 その時に、聞き込みにまわっても、 誰からも証言は取れない。 いったい誰が、ひと月前のことを覚えているというのだ? それに、可能性はあくまで可能性であって、 このアリバイが破られても、 公判が維持できるかどうかはかなり微妙なところだ。 もちろん、取り調べは受けるだろうが、しらを切っていれば、 何一つとして物証はないのだから、送検すらできないだろう。

私は列車ダイヤを使った推理小説なんか手がけたことはないが、 一応は、そういうものも研究していたのだ。 まさか、そんなものが実戦に役立つとは思わなかったが。


「なるほどな。しかし、台風を甘く見たのは失敗だったな。 確かに予定通り、『さくら』『はやぶさ』に乗り込むことはできたが、 台風のせいで、岡山で足留めを喰ってアリバイ工作に失敗したわけだ」
「…」
「しかし、なぜ岡山で車掌に喰ってかかったりしたんだ? そんなことをしたって、 台風で足留めをくらった列車が発車するわけじゃないだろう? 車掌がお前の顔をしっかり覚えていたよ。 おかげで、 お前がいた寝台車の個室からお前の頭髪が発見できたのだがな」
「それは…。岡山で足留めをくらって、あわてたんです。 台風のせいで、刑務所に行きになるのは御免でした。 早く列車が出ないかと、そればかり考えていました。 一分が何時間にも感じられました。 しかし、まさか広島で綾子が殺されていたなんて…」
「そうだ。多少遅くなっても適当な言い訳をしていれば、 お前の頭髪が発見される前に、 客車はクリーニングされていただろうから、 こんな物証が出ることはなかったんだよ。 しかし、お前の愛人が殺され、 お前が部屋にいないことがばれたことがきっかけで、 アリバイのトリックはすぐにわかったよ。 で、列車に同乗していた車掌に聞いたら、 車掌の記憶もまだ新鮮だった。 それが捜査に幸いしたな。 もしも、アリバイが崩れたとしても一週間遅れていたら、 車掌の記憶も当てにならなかったし、 お前を取り調べるのも大変だっただろうな」
取り調べの刑事は、そういいつつタバコに火をつけて、続けた。
「もっとも、台風で列車が遅れたおかげで、 愛人の殺人事件の方はアリバイができたわけだ。 あの事件は迷宮入りになっている。 が、お前のアリバイ工作が完璧だったら、 疑われていたのはお前だった。 恐らく、あの状況では、無実を証明するのは不可能だったはずだ」

私は調書に署名をし、拇印を押した。 女房殺しは、台風のせいで、アリバイ工作に失敗し、 すぐに露見したが、 おそらくは、金品目当ての強盗によって殺された綾子の件については、 アリバイが成立した。

まるで、皮肉な小説のようだ。 いや、台風でアリバイのトリックが崩されるなんて、 雑文のネタにもならないだろう。 しかし、私は、 もしもこの一件を小説にしたら、 次のような言葉で締めくくるのがいいのかも知れないと考えていた。

そう、人生は割りきれるものばかりじゃない。

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