焼き鳥屋にて

ある日私は同僚の M に一杯誘われた。

普段飲まない M が酒を誘うのは珍しい。 これは愚痴を聞かされるかな? と、思っていたら、M にも私の危惧が通じたらしく、 愚痴が多くなるがいいか? と、断ってきた。 人の愚痴なんか聞いても面白くとも何ともないし、 愚痴を言いがちな人間とはなるべく酒を飲まないようにしている私だったが、 M の身辺の話を彼から直接聞くという機会もあまりなかったことに気がついた。 それで、好奇心から彼と一杯やることにした。

二人で焼き鳥屋に入った。 生ビールを注文し、 型通りの「おつかれさま」で乾杯をした。 適当につまみを注文して店員を追っ払うと、 いきなり M が真顔で聞いてくる。
「どうしたら君のように即座に人に言い返せるのか教えてほしい」
「いったいまた、どうしてそんなことを聞く?」
「いや、人に何かを言われてもすぐに言い返せないんだ。 それで損をすることが多くて…。 君は、人に何かを言われても、いつもうまくかわしたり、 すぐに言い返せるだろう。 僕も君にあやかりたいよ」
そう一口で言って、M はごくんとジョッキのビールをあおった。
「そうかなあ」
「いや、そう思うよ」
彼は口のまわりにビールの泡をつけたまま、うなずいた。 彼の表情は真剣そのもので、 思い詰めているせいか、多少青ざめて見えた。

M はインターネットに技術系のサイトを持っており、 私は、自分の『お気に入り』には、彼のサイトも入れている。 彼は文章を書くのがうまくて、 ちょっとしたプログラムの設定なども、 これが技術系文書か、と思われるような文章で書いていた。 うまくは言えないが、内容がわからなくても、 最後まで読んでみたくなるような文章である。 あれだけの文章を書く以上、M はかなり頭のいい方だといってもよかった。 しかし、その M がうまく人に言い返す方法なんかを私に真顔で聞いてくる。 最初のうちは、私はからかわれているのかと思ったぐらいだった。

「でも、君のサイトは常々参考にさせてもらっているが、 あれだけの文章が書けるのだから、そんなことを俺になんか 聞く必要はないだろう?」
「いや、あれは、何度も何度も推敲しているからさ。 僕はものを考える速度が遅いらしい。 自分でいうのもなんだが、 確かに、文章みたいにじっくり考える余裕のあるものは、 なんとかなるよ。 でも、例えば、電子メールなんかでも、 咄嗟に返事を書いたような場合には大抵へまをするんだ。 この前も、メーリングリストにあわてて返事を書いたら、 それは違うんじゃないかという返事を沢山もらったよ。 少なくとも、一昼夜寝かせて何度か推敲しないと、 トラブルのもとなんだ」

「なるほど」
「で、慎重な書き方を心がけるようにして、 九割がた確信があっても、断定的な言い方を避けたりするようにしたんだが、 今度は、言い方や文章がまどろっこしくなるんだ。 その結果、誰も最後まで聞いてくれないし、読んでくれない。 今や、僕の言葉には必ず、『かも知れない』 とか『断定はできないが』とか『これは推測だが』 なんていうのがつく有り様さ」
「それは、大変だな。ひとこと喋るのでも気が抜けないだろう?」
「ああ、おかしくなりそうだ」
また、M はごくんとビールを飲んで、ジョッキを空にした。 口いっぱいにビールを含んで、喉に一気に流し込む感じだ。 今日はピッチが上がっている。
「あ、すみません。生中おかわり」
いままで気がつかなかったが、言われてみれば M は多少 まどろっこしい話し方をするし、彼のメールもそうだった。 性格だろうと思っていたが、 M がそうなったのは外部からの圧迫によるものだったらしい。 これは意外だった。

M はぼやきつづける。
「それだけ、気を遣っても、あの猿みたいな課長の一声にはかなわないもんな。 泣きたいよ」
まだ、生中二杯目だが、M は典型的な愚痴話に私を誘った。

猿みたいな課長、というのは言い得て妙だった。 今年、50 になろうとする課長は確かに猿に似ていた。 大声で、のべつまくなし唾を飛ばして喋りたて、 日経新聞の記事そのままの技術批評を、 あたかも自分の意見のように言う人であった。 『○○っていうもんは…』というのが口癖だった。 ○○には、例えば、『女』だとか『ネット』だとか『パソコン』 だとかが、状況に応じて代入された。 徹底的な断定口調で、自分に対する懐疑を持たぬ幸せな人である。

一方で、 M はそういった一面的な技術批評に真っ向から意見を述べた。 M 程の知識があれば、一面的で浅薄な知識で、 一刀両断にネットだとかパソコンだとかを論じること自体が 笑止であっただろう。 しかし、いつも、彼は『猿のような課長』には勝てなかった。 課長は大声で、断定する。 まわりくどい、 あらゆる可能性を吟味して結論に持って行こうとする M の論法よりもわかりやすく、 説得力があった。

「あのな。あの課長と真面目に議論しようとするのが間違っているよ」
「でも…」
「まあ、聞け。問題は議論して勝つか負けるかだ。 あの山猿の頭にはそれしかないさ。 つまり、自分が言い負かされなければいいわけだな。 別に、あの山猿は正しいか間違っているかを突き詰めるつもりはないんだよ。 面子だけさ。 そういうのとは真面目に話したら負けだよ」
私もちょっと熱くなった。山猿の所為だろう。 もっとも、うちの課で、山猿の話が出て穏やかで居られるとしたら、 山猿本人か、その取り巻きぐらいしかいない。

「そればかりじゃないだ」
「なんだ?」
「とんでもないことを言われると、二の句が継げないんだよ。 で、二の句が継げないと負けたと思われる。 それが癪なんだ」
「二の句が継げないって…。 どういうことだ?」
「つまり、あまりに非常識なことや、 厚顔無恥なことを言われると絶句するんだ。 いったい、なんで、こういう破廉恥なことが言えるのかなあ、 と思ってしまって、次の言葉が出なくなるんだよ」
M は、人に何か言われると、黙り込むことが多かった。 そういうわけだったのかと、納得した。

「なるほどなあ。 しかし、君が思っているほど、人は上品じゃないよ。 ことに、山猿は、いろいろな意味で下品な奴だ」
「そうかなあ」
「そうさ。 そういう意味からも、奴と真面目に議論しちゃだめだ」

「山猿のことはわかったよ。しかし、 仕事関係ばかりじゃないんだ」
「ん?」
「君も知っていると思うが、僕は以前は IRC とかもやっていたし、 掲示板もサイトにおいていた。 でも、一事が万事その調子で、もう ネットの上でも人と話すのも、こりごりなんだ」
「そりゃ、ネットの上にだって、 山猿みたいなのはごまんといるだろうからな」
「いや、そういうことなら、まだわかるんだが、 例えば、女性を相手にしても同じような目にあうんだ」
M の話に女性が登場することなんてまずない。 これは初耳だ。私は膝を乗り出した。
「一体どういうことなんだ。そういえば、君は 一時期チャットにはまっていたな。それと関係あるのか?」
「いや、IRC だ」
「えーと、IRC って…。 確か、一回、見せてくれたよな。 クライアントとかいうのが必要な奴だな。 そういえば、最近その話を聞かないな。何があったんだ?」
「いや、話を最後まで聞いてくれないんだよ。 この前なんか、 うっかり『主婦』とかいったら、 差別だとか偏見だとかいわれて、 えらい責めたてられた」
「君は田島なんとか、とかいう参議院議員とか、 福島瑞穂なんかとチャットしているのか?」
「おぃ。からかうなよ」
「いや、悪かった。しかし、『主婦』って差別用語だったのか?」
「いや、僕もわからない。 ただ、そんなつもりじゃないと言おうとしても、 相手は回線ごと切断するし。 大抵の場合、一方的に言いたいことをいうと、 こちらの話なんか聞いてくれないんだ」
「それじゃ、山猿と同じじゃないか?」
「でも、相手は三十代の女性なんだが」
「いや、若い女性だって結構その手のは居るぞ。 三十代なら、なおさらだ」
「そうなのか」
「まさか、正面から議論したんじゃないだろうな?」
「いけないのか?」
「いや、そんなことはないが、 議論する気なら、一方的ということはないだろう。 ピンポンのように言葉のやりとりがあるはずだろう?」
「言われてみれば、一通り彼女の主張を聞こうと思って、 黙っていると、何時までも一人で喋っているな」
「で、君がなにか言うと、回線切断か?」
「まあ、そんなもんだ」
「よし、いいことを教えてやるぞ。 人の話は絶対に聞くな。 これが、相手を言い負かす必勝法だ」
「それじゃ、議論にならないじゃないか?」
「ああ、それでいいんだ。 だいたい、その女だって、自分はいいたいことを言うが、 人の話は聞かないんだろう? だったら、君だけ話を聞く道理なんてないだろうさ。 それに、議論が目的ではなく、 勝敗だけが目的の場合には、話を聞いた方が負けだぞ。 肝に銘じておくんだな」
「そんなもんか」
「そうだ。テレビの激論番組なんか見ても、 誰も人の話なんか聞いていないだろう? 文化人とか評論家でもあのレベルさ。 なにも、君だけ人の話を真面目に聞くことなんかないさ」
「そういわれれば、そうだな」
「それに、山猿の場合も、その女の場合もそうだが、 筋を通したり、突き詰めたら、だめだ」
「え?」
この辺は、実体験がないとわからないものだ。
「まあ、そのうちわかるさ」
「わからないが、とにかく参考にさせてもらうよ」
気のせいか、M の顔の血色が良くなってきたようだ。
「で、君の趣味のネットだが、それじゃどこにも居場所がなくて大変だな。 どうするんだ?」
「君も知っての通り、僕はこの前引っ越して、 フレッツ ISDN も解約したさ。 ちょうどいいので、ネットでコミュニケーションするのは 一切やめることにした。 IRC も、もう二度とやらないことに決めたよ」
「なるほどな…。ま、とにかく飲もう」

二人して一気にジョッキを空けた。いい加減、酔いも回ってきたし、 M の話もいよいよ愚痴らしくなってきた。 愚痴の嫌いな私だったが、 今晩は、そんなんでもなかった。

「すいません。生中ふたつ!」

かくして、ああでもない、こうでもないと言い合う愚痴の宴は続いて行った。 どこにでもある、平和な日本の光景である。

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