内親王

今日は休みだ。 ごろごろしながらテレビを見ていたら、 突然番組が中断された。 金屏風の前に冴えない表情の男が落ちつきなくすわっている。

これが、工藤静香だったりすれば、 間違いなく 「工藤静香が子供を産んだ」 となるところだが。 「ああ、皇太子妃が御出産遊ばされたのだろうか」 と、 普段は絶対使わない語彙で状況を判断した。

金屏風の前の男は、
「皇太子妃殿下にあらせられましては、 本日午後 2 時 43 分、御出産。 内親王が誕生されました」
と言っていた。 細かいところは間違っているかもしれないが、 だいたいこんな感じのことを喋っている。

俺は、訳もなく、「うん。うん」といって、二三回頷いた。 考えがあるわけでもなく、ほとんどそれは反射的なものだった。

しかし、この冴えない表情の男は 宮内庁の課長だという。 普通の会社なら、 課長なんて絶対にテレビになんか顔を出せないが、 上級公務員の課長というのは 同じ『課長』という肩書きであっても、 こういう場に顔を出せるものらしい。 恐ろしいことだ。 だとすると、 中央省庁の局長なんていうのは、 我々下々のものがおいそれと話しかけてはいけない存在なのだろうと、 あらためて日本の身分社会の怖さを思い知った。 俺は、今の会社の課長という地位を放擲しても、 どこかの省庁の係長ぐらいにはなりたくなった。

想像は、ますます膨らむ。 この金屏風の前の男は、 こうしてみるかぎり、冴えない表情をしているが、 おそらくは高学歴であり、 課長になっている以上、 相当の切れ者に違いない。 ついでに、思い出したが、 外務省の事務次官はほとんどヤクザと変わりない風貌をしているが、 よく考えてみれば、 事務次官というのは局長の上だ。 すると、名前は忘れたが、 あの鬚面の怪盗袴垂のようなヤクザまがいの事務次官は、 高学歴、高知能の恐るべき超人ということになりはしないか? それに、中央省庁の事務次官である。 いったい月にいくら給料をもらっているのだろう? 100 万以上はもらっているに違いない。

俺は、自分の境遇に照らしあわせてみて、 日本の上層で生きる人々のことを考えていた。

「あら、生まれたのね? 男の子? 女の子?」
女房が台所仕事を中断して、茶の間に顔を出してきた。 テレビから離れていたので、内親王の誕生を知らないと見える。
「内親王さ」
「あら? それって、男の子? それとも、女の子?」
「まったく、馬鹿なことを言うもんじゃないぞ。 常識がない奴だな。 内親王といっているのだから、内親王に決まっているじゃないか?」
「だから、内親王って、男の子なの?」
「そういうことを、人に聞くなんて、まったく、もの知らずとしか言いようがないな」

実は、狼狽しているのは俺の方だった。 女子が誕生とか、男子が誕生とか言うかと思っていたら、 あっけなく裏切られて、 『内親王』と来た。 男子か、女子か、教えてほしかったのは、他ならぬ俺自身だったが、 それを言うきっかけはとうに失っていた。

俺のぶっきらぼうな物言いに、 さすがに女房は金切り声をあげはじめた。
「ちょっと、いくらなんでも酷いじゃないの? あなた、頷いていたんじゃないかしら? そんなに学があるのなら、 ちょっと教えてくれてもいいでしょ? 知っているからって、偉そうに言わないでよ」
「聞かれた方の身になってみろよ。 俺は、情けないぞ。 ほら、これで調べろよ」
俺は、外側は小汚いが、 内は指の切れそうなほど新しい岩波書店の 『広辞苑』 を差し出した。
「なんで、そんな面倒なことをするのよ? ちょっと一言、女の子か、男の子か言ってくれればいいだけでしょ?」
「あのな…。女の子とか男の子とか失礼だぞ。 皇族なんだから…」
「それが、どうしたっていうのよ。 別に、誰が聞いているわけでもないし、 私だって、よそ様にはそんなことは言わないわよ。 それに、あなたみたいに 『立っちゃったから、一発サセテクレ』 なんて下品な物言いをする人間に、そんな資格はないでしょ? なによ、突然、上品ぶって」
女房は突然無関係な方角に話を切り替えだした。 さんざん言い負かされたので、 その雪辱を期して、 無関係な話を始めるのは、 女房の常套手段だった。

テレビではあいかわらず、 皇太子妃殿下御出産の特別番組が流れている。 世間の、おめでたいと喜ぶ光景も映し出されている。 が、わが家は一転して修羅場になってしまった。


月曜日になって職場に出ると、 やはりその話で持ちきりだった。 天皇制の是非とかいう厄介な領域に踏み込まない限りは、 無難な話題であるといえる。

物識りの同僚が テレビの特番についてコメントしている。
「某局で、『女の子御誕生』という字幕を出していましたが、 ちょっとあれは感心しませんね。 いくらなんでも、失礼という気がしますが」
それはそうかもしれないが、 『内親王』という言葉で男女が瞬間的にわからない人間も多い。 その点で、テレビ局の判断は正しい。 これは、自分の正直な感想である。

$Revision: 1.3.2.3 $